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1. 在野右翼の登場~アジアの革命支援(孫文の中華革命・アギナルドの比国独立・B.ボースの印度独立etc.) (1) 頭山満(1855-1944)と玄洋社(1881結成-1946解散) 頭山は福岡藩士の子で、西郷傘下の矯志会で学んだが西南戦争中は萩の乱に連座して入獄しており死を免れた。出獄後に民権・国権伸張運動に加わり、政治結社玄洋社を結成し、東亜連帯による欧米列強の排除・アジア諸国の独立を信念として晩年まで精力的に活動した。 (2) 内田良平(1874-1937)と黒龍会(1901結成-1931改組) 内田も福岡藩士の子で、玄洋社幹部であった叔父平岡浩太郎の影響を受けて右翼運動に加わり、大陸雄飛の為の組織として黒竜会を結成。孫文らの辛亥革命では最強の戦力となって革命に貢献したが、孫文の満州割譲の盟約の撤回にあい、満州独立論に転じた。 2. 経済恐慌と右翼思想の軍部への浸透 (1) 大川周明(1886-1957)と5.15事件(1932.5.15) 頭山・内田は思想家である前に活動家であったが、大川周明は国家社会主義(大資本家による経済搾取の排除・政党政治の打破)とアジア主義(アジア諸民族との連携と日本の主導による有色人種の解放・西洋文明との決別)を思想として唱え、1930年前後の経済恐慌期に貧しい農村出身者の多い軍部に強い影響力を及ぼした。1932年には大川の日本改造案の実行を企てた一部の海軍将校と愛郷塾(農本的国家主義者の結社)塾生らが5.15事件(犬養毅首相を射殺したクーデター事件)を起こして、政党内閣制を崩壊させた。 (2) 北一輝(1883-1937)と2.26事件(1936.2.26) 北一輝は佐渡の出身で初め幸徳秋水・堺利彦の社会主義運動に関心を持っていたが、大陸浪人の宮崎滔天らと知り合い、内田良平・孫文らの中華革命運動に参加。『日本改造法案大綱』を発刊(1923)してアジア主義と国家改造論を唱え、陸軍青年将校に強い影響力を及ぼした。1937年に2.26事件(国家改造を目指す皇道派将校が1500人余りの部隊を率いて首相官邸などを襲撃、斉藤実内相・高橋是清蔵相などを射殺したクーデター事件)が発生すると反乱将校達の理論的首謀者として検挙され刑死した。 3. 宗教系(仏教系)右翼の登場~右翼思想の過激化 (1) 井上日召(日蓮宗僧侶)と血盟団事件(1932) 群馬県出身の日蓮宗の僧侶。血盟団を組織し、国家革新(昭和維新)実現のため「一人一殺」を合言葉に1932年、井上準之助(前蔵相)・団琢磨(三井財閥重鎮)を暗殺。無期懲役となるが後に特赦を受けた。なお後の日本赤軍のリーダー重信房子の父親は血盟団員であり、井上日召は赤ん坊の重信を膝に抱いたことがあるといわれる。 (2) 田中智学(日蓮宗系新興教団)と「八紘一宇」論 田中は日蓮宗の在家信者組織として国柱会を組織し、日蓮主義と国家主義の統合を目指した。1903年には、日蓮を中心にして「日本國はまさしく宇内を靈的に統一すべき天職を有す」という意味の「八紘一宇」なる新語を『日本書紀』巻第三神武天皇の条の「掩八紘而爲宇」の記述から造り、日本は世界を道義的に統一する使命がある、とする思想を唱えた。のちにこの言葉が人口に膾炙して大東亜戦争のスローガンにまでなった。 (3) 加藤玄智(浄土真宗在家信者)と天皇絶対神論・国家的神道論 加藤は新仏教同志会の創立者の一人であり、東京帝国大学で宗教学を教えた浄土真宗の信者であるが、同僚の外国人教授の天皇論に刺激を受けて、1912年に『我が国体思想の本義』を刊行し、古来からある天皇「神裔」論を超えて天皇「現人神」論を提唱して「日本に於いては臣民は天皇に絶対服従する」とする天皇絶対神論を主張した。1925年には更に「国家的神道(State Shinto)」なる新語を造り外国に日本人の信仰の在り方として積極的に紹介したために、欧米諸国に、この天皇絶対神論と国家神道論が日本の宗教の実態だと誤解され、後にGHQによる神道指令と天皇の所謂人間宣言を招き、今に至るまで戦前の宗教的制度についての広範な誤解を招いている。 4. 思想統制の開始~マルクス主義への対抗イデオロギーとして (1) 天皇機関説事件(1935)と国体明徴運動 上杉慎吉博士の天皇主権説に対抗して、美濃部達吉博士が唱えた天皇機関説は1920年前後の大正デモクラシー期には学界の通説となっていたが、1930年代の経済恐慌期に国家主義的な右翼思想が勢力を増すと、右翼団体の過激派が天皇機関説を「不敬」として美濃部博士を襲撃し重傷を負わせる事件が発生(天皇機関説テロ事件)。国会でも美濃部博士の説を攻撃する議員が現れ、さらに政府に対して「国体明徴」(統治権の主体は天皇にあることを明示すること)を要求する動きが発生し、政府はこれを呑んで美濃部博士の天皇機関説は破棄され、博士は貴族院議員を辞職、天皇機関説を述べた著書3冊は発禁処分とされた。 (2) 『国体の本義』刊行(1937) 1930年前後に上に述べたような右翼思想が提唱され伸張した背景には、①経済恐慌の進行、という要因の他に、その経済恐慌による貧困を解決する思想としてマルクス主義思想が急速に知識人・学生層に拡散しており、②それに対抗するイデオロギーとして(頭に天皇を頂くだけで、中身は実は殆ど同じの)国家社会主義的な思想が必要だった、という現実からの要因があった。そうしたマルクス主義思想への対抗イデオロギーとしての日本国家の公定の国家観を示すガイドラインとして、1937年には『国体の本義』が刊行された。 5. 支那事変と国家総動員体制~全体主義化の進行 (1) 近衛文麿内閣(1937-38,1940-41)と新体制運動 1936年の2.26事件のあと、広田弘毅・林銑十郎内閣と続いたが、いずれも陸軍・海軍・財界・政党人の意見調整に失敗し内閣崩壊。元老・西園寺の推薦の下に、各界の期待を担って近衛文麿内閣が発足し、難局に当たることになった。(第一次近衛内閣)近衛内閣は発足してまもなく後に支那事変の勃発に見舞われ、戦線不拡大方針を声明しながらも、ズルズルと大陸内部への戦争に引きずり込まれ、1938.12の汪兆銘(中国国民党左派で蒋介石のライバル)の重慶脱出を契機に総辞職した平沼騏一郎・阿部信行・米内光政各々の短期内閣が続く期間に、近衛は、陸相・海相・外相候補を私邸に招いて方針を調整し(荻窪会談)、1940年7月第二次近衛内閣を組閣。政治・経済の全体主義化を進めて非常時乗り切りを図ったが、支那事変の解決の目処は立てられず、米英蘭の経済封鎖を招いて日米破局に至った。 (2) 国家総動員法成立・東亜新秩序声明(1938) 1937年から38年にかけて支那事変が始まると、近衛内閣は国家総動員法を成立させて国内の経済統制に着手せざるを得なくなった(経済の全体主義化)。近衛内閣は更に欧米列強のブロック経済圏に対抗して、日満支3国による東亜ブロック(東亜新秩序)建設を声明した。 (3) 大政翼賛会結成(1940) 政党政治は1932年の5.15事件を経て、36年の2.26事件を持って機能をほぼ停止し形骸化していたが、国家総動員体制の非常時において、更に一国一党の翼賛政治が望ましいとする近衛首相の提言に従い、各党は解散して大政翼賛会に集結した(政治の全体主義化)。 (4) 企画院・昭和研究会~革新官僚の暗躍 近衛内閣の新体制運動を具体的に企画するブレインとして尾崎秀実・蝋山政道・三木清・風見章・和田博雄・勝間田清一ら昭和研究会に集った革新官僚が台頭し、企画院を拠点として総合的な国策企画に当たったが、その実態は尾崎・蝋山・和田・勝間田に代表される国家主義者に偽装した左翼社会主義者の暗躍であった。1941年4月には企画院に対して財界・右翼から赤化思想を疑う声が挙がり、翌年1-4月に和田・勝間田など17名が検挙されるに至った(企画院事件)なお近衛のブレインの尾崎秀実はソ連のスパイ・ゾルゲと通じた工作員であり、尾崎に近い西園寺公一(元老・西園寺公望の孫)も工作員の可能性が高く、近衛の日支和平工作・日米交渉妥結を妨害したとみられる。 6. 敗戦と右翼運動の壊滅~現在まで (1) 赤尾敏(1899-1990)と大日本愛国党(1951-) 赤尾は愛知県出身で先ず社会主義に目覚めて東京の左翼運動に参加したが、仲間の裏切りに遭い検挙され、釈放後に右翼国家主義者に転向した。1942年の翼賛選挙で衆議院に当選。戦後に公職追放され、その解除後に大日本愛国党を結党(1951)し、東京銀座で一貫して反共反ソを訴える街頭演説を行って戦後の右翼活動家の代表的存在となった。 (2) エセ右翼団体の暗躍 GHQの命令により、頭山満系の玄洋社・内田良平の黒竜会の流れを引く大日本生産党などの伝統的な在野右翼結社は解散させられ、右翼運動は壊滅した。そうした状況の中で、朝鮮右翼・同和系右翼が進出(右翼運動を乗っ取り)、愛国者のイメージ・ダウンを狙いとする下品な街宣活動を常態化させ一般国民に「右翼=基地外」という認識を刷り込んでいる(現状では、右翼団体構成員の約3割が朝鮮系、約6割が同和系(左メニュー上部の動画参照))。本来の右翼は国粋主義にも係わらず、明治神宮や靖国神社、果ては皇室行事まで妨害するエセ右翼、中国や北朝鮮・朝鮮総連がピンチになると自作自演の異常な抗議活動を行い「日本人=加害者」というイメージを刷り込む御用右翼まで登場している。 (3) 維新政党新風と「行動する保守」運動の登場(2007-) 上に述べたように戦前/戦後を通じて伝統的な右翼は「アジア主義(アジア諸民族との連携による排欧米主義)」を色濃く打ち出しており、それが戦後の朝鮮系による右翼乗っ取りにも繋がったのだが、近年「アジア主義との決別」を宣言する新しい右翼運動が登場、中共のチベット弾圧に対する抗議活動や朝日新聞など反日メディアに対する糾弾、外国人参政権問題・不法滞在外国人問題の告発・一般国民への啓蒙活動などに大きな役割を果たしており、今後の動向が注目される。 人物やキーワード紹介として主にwikipediaをリンクしていますが、一般にwikipediaの内容は歴史問題の説明に関しては教科書的な自虐史観に偏っていることにご注意下さい。(関係する事件の発生日時や人物名などについては正確であり、また参考となる膨大な情報が詰まっているので、研究用として敢えてリンクしています) 参考リンク:日本の右翼
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Aliceが消されてしまって残念です。 -- 名無しさん (2009-11-30 19 56 41) ドストエフスキー トルストイを飛ばし読みしていいはずは無い -- 名無しさん (2011-10-29 18 30 54) ↑ドストエフスキー、トルストイは長々し過ぎて、まともに読むと半年くらいかかってしまうよ。 -- 名無しさん (2011-11-01 10 27 03) ↑半年はかからないと思う。一週間で読みきれる。 -- 名無しさん (2012-12-31 12 57 08) てめえ基準かよw知るかよw -- 名無しさん (2013-07-10 00 01 07)
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■1.はじめに 本サイトは、政治問題・マスコミ問題・歴史問題など幅広く扱っていますが、反日問題は、法律分野・思想(法思想/政治思想)分野でも非常に深刻です。 代表的なところでは、自衛隊と憲法9条の関係を始めとする日本国憲法の問題、靖国神社への首相参拝に関する訴訟問題、いわゆる南京大虐殺や従軍慰安婦の訴訟問題、沖縄集団自決の教科書記述に関する訴訟問題が挙げられます。 歴史問題に関しては、①事実か否か、の検証がきちんと進めば問題はかなり正常化されますが、 法律問題に関しては、①事実認定、のほかに、②価値判断、が大きく絡むので正常化への道のりは厳しいものがあります。 もちろんその場合でも、①価値判断の基礎となる事実認定、が曇りない目で為されていれば、問題は大方解消されるのですが、日本の(法思想・政治思想を含めた広い意味での)法学教育は、歴史教育以上に、②バイアスのかかった偏った思想の刷り込み、が強力に行われています。 (歴史教育は、歴史事実を扱うという性格上あまりに極端な誤認識の刷り込みは難しく、またネット普及後は比較的容易に嘘を見抜ける環境が整いました。一方、法学教育に関しては、いまだそのような環境は整っていません。) このページでは、そうした法学分野での反日問題を考える上での基礎知識を、隣接する政治思想分野も含めてまとめていきます。 <目次> ■1.はじめに ■2.法学(法律学)の分類 ■3.法思想・政治思想の対立軸~「歴史主義(伝統主義)」か「反歴史主義」か ■4.法思想・政治思想を理解する為の様々な概念 ■5.代表的な思想家(法思想・政治思想)と評価 ■6.日本における代表的な憲法論の内容紹介と評価 ■7.参考図書 ■8.各国の憲法と政治 ■9.ご意見、情報提供 ■2.法学(法律学)の分類 法学(法律学) Legal Science 1. ①理論法学(基礎法学) 法、及び、法現象の経験科学的・理論的な解明を直接の目的とする。 (1) 法理学(法哲学) 英米法では法理学(Jurisprudence)、大陸法では法哲学(Legal Philosophy)の語が一般的法とは何か、法によって何を実現するのか、といった法思想を考究する分野であり、全ての法学の基礎となる分野である。 (2) 法社会学 法を取り巻く社会的現象を考究する分野 (3) 法史学 法の歴史的な推移を考究する分野 (4) 比較法学 各国あるいは各時代の法を比較検討する分野 2. ②実用法学(応用法学) 立法・行政・裁判に役立つ法原理・法的技術を中心に体系化したもの。 (5) 法解釈学(狭義の法学) 制定法の解釈、あるいは判例や慣習によって実現される法実践を考究する分野であり、法学の中心的位置を占めている。しかし、そもそも現行の制定法あるいは慣習法が果たして望ましいものであるか否かの考究自体は、基礎法学の①法理学(法哲学)に負っている。 (6) 法政策学 効果的な法政策の在り方を考究する分野 ※上記の①理論法学(法理学など)と、②実用法学(法解釈学など)の区別は、特に憲法論における、①実質的意味の憲法論(憲法の概念・理念論)と、②形式的意味の憲法論(実定法である憲法典の解釈・運用論)の区別において必要になります。 ⇒※参考ページ 憲法論の二段構造:①実質憲法(=法価値論)と、②形式憲法(=法解釈論) ■3.法思想・政治思想の対立軸~「歴史主義(伝統主義)」か「反歴史主義」か 歴史主義・伝統主義 (英米法) 反歴史主義・リセット主義 (大陸法) 権利の本質 人間は長い歴史を通じて、社会の中で試行錯誤を繰り返しながら、社会的叡智の結晶として歴史的権利を「慣習」という形で個別に見出してきた、とする立場 人間は自然状態において、生来的に自然権(natural right)を有していたが、社会契約(social contract)を結んで自然権を一部または全部放棄し、人定法(実定法:positive law)を定めた、とする立場 法の本質 法は特定の共同体の中で人々の社会的ルールとして自生した(特定の人物の意思によらずに時間をかけて次第に生成されてきた)(法=社会的ルール説)(★注3)⇒この立場は、真の法=ノモス(個別の共同体毎に自生的に発展してきた人為的ではあるが特定の意思によらざる法)とする見解と親和的である。 法はそれを作成した主権者の意思であり命令である(法=主権者意思[命令]説)(★注1、★注2)⇒この立場には、①真の法=理性から演繹された自然法(フュシス)とする近代的自然法論、および、②真の法など存在せず主権者の意思・命令としての人為法があるのみとする純然たる法実証主義、の2通りの見解がある。 誰が法を作るのか 法は幾世代にも渡る無数の人々の叡智が積み重ねられて自生的に発展したもの(経験主義、批判的合理主義)⇒「法は“発見”するもの」⇒制憲権(憲法制定権力)を否認(特定時点の世代の人々が制定できるのは原則として「憲法典(形式憲法)」迄であって、「国制(実質憲法)」は世代を重ねて徐々に確立されていくものに過ぎない) 法は主権者の委任を受けた立法者(エリート)が合理的に設計するもの(設計主義的合理主義)⇒「法は“主権者”が作るもの」⇒制憲権(憲法制定権力)を肯定(特定時点の世代の人々は「憲法典(形式憲法)」のみならず「国制(実質憲法)」をも意図的に確立することが可能である) 補足 共同体毎に個別的→共同体に固有の「国民の権利」と「一般的自由」の二元論と親和的価値多元的・相対主義的、帰納的、保守主義・自由主義・非形而上学的な分析哲学と親和的法の支配ないし立憲主義と順接 全人類に普遍的→共同体や歴史的経緯を超える普遍的な人権イデオロギーと親和的絶対主義的(但し価値一元的な傾向と価値相対主義的な傾向との両面がある)演繹的、急進主義・全体主義・形而上学的な観念論哲学と親和的国民主権や法治主義と順接 実例 英国の不文憲法が典型例。またアメリカ憲法は意外にも独立宣言にあった社会契約説的な色彩を極力消した形で制定され歴史主義の立場に基づいて運用されてきた。大日本帝国憲法(明治憲法)も日本の歴史的伝統を重んじる形で当時としては最大限に熟慮を重ねて制定された フランスの数々の憲法、ドイツのワイマール憲法が典型例。日本国憲法は前文で「国政は、国民の厳粛な信託によるもの」とロックの社会契約説的な制定理由を明記しており、残念ながら形式上この範疇に入る(GHQ草案翻訳憲法)※但し“解釈”により日本の歴史・伝統を過剰に毀損しない慎重な運用が為されてきた 主な提唱者 コーク、ブラックストーン、バーク、ハミルトンなお第二次大戦後の代表的論者は、ハイエク、ハート ホッブズ、ロック、ルソーなお第二次大戦後の代表的論者は、ロールズ、ノージック (★注1)「法=主権者意思[命令]説」は、主権者を誰と見なすかによって以下に分類される。 ① 君主主権 君主一人が主権者。(1)社会契約説以前の王権神授説や、(2)ホッブズの社会契約説が代表例。 ② 人民主権 君主以外の人民 people が主権者であり人民は各々主権を分有し人民自らがそれを行使する(=プープル主権説)。ルソーの社会契約説が代表例。 ③ 国民主権 君主を含めて国民全員が主権者(但し左翼の多い日本の憲法学者には「君主は国民に含めない」として、実質的に人民主権と同一とする者が多い)。なお国民主権の具体的意味については、(1)最高機関意思説と、(2)制憲権(憲法制定権力)説が対立しており、さらに(2)は、 1 ナシオン主権説と 2 プープル主権説に分かれる(プープル主権説は実質的に②人民主権説)。一般的に国民主権という場合は、 1 ナシオン主権説(観念的統一体としての国民が制憲権を保有するとする説)を指す。 ④ 議会主権 英国の憲法学者A.V.ダイシーの用語で、正確には「議会における国王/女王(the king/queen in parliament)」を主権者とする。君主主権や国民主権の語を避けるために考え出された理論 ⑤ 国家主権 帝政時代のドイツで、君主を含む「国家」が主権者であるとして君主主権や国民主権の語を避けた理論。戦前の日本の美濃部達吉(憲法学者)の天皇機関説もこの説の一種である ⇒教科書は、戦後の日本は「国民主権」だが、戦前の日本は「君主主権」の絶対主義国家だった、とする刷り込みを行っている。しかし実の所は、大日本帝国憲法(明治憲法)は制定時において明確に歴史主義の立場を取っており、そもそも「xx主権」という立場(法=主権者命令説)ではなかった。強いて言えば ⑥ “法”主権 つまり「法の支配」・・・歴史的に形成された統治に関する慣習法(=国体法 constitutional law)及びそれを可能な範囲で実定化した憲法典(constitutional code)が天皇をも含めた国家の全構成員を拘束するという立場だった。 ⇒なお、大正デモクラシー期には、ドイツ法学の「⑤国家主権説」を直輸入した美濃部達吉の「天皇機関説」が通説となり、それがさらに天皇機関説事件によっていわゆる①君主主権説に転換したのは昭和10年(1935年)以降の僅か10年間である。 (★注2)「法=主権者意思[命令]説」は、法を特定の立法者/思想家の価値観(例:カントやヘーゲルのドイツ観念論的法思想や自然法論・人権論)あるいは政治イデオロギー(例:マルクス主義やナチス期ドイツ思想)に還元してしまう危険が高く、全体主義への接近を許してしまう。 ※以下、「法=主権者意思[命令]説」の法体系モデル。 ※図が見づらい場合⇒こちらを参照 ※①宮澤俊義(ケルゼン主義者)・②芦部信喜(修正自然法論者)に代表される戦後日本の左翼的憲法学は「実定法を根拠づける“根本規範”あるいは“自然法”」を仮設ないし想定するところからその理論の総てが始まるが、そのようなア・プリオリ(先験的)な前提から始まる論説は、20世紀後半以降に英米圏で主流となった分析哲学(形而上学的な特定観念の刷り込みに終始するのではなく緻密な概念分析を重視する哲学潮流)を反映した法理学/法哲学(基礎法学)分野では、とっくの昔に排撃されており、日本でも“自然法”を想定する法理学者/法哲学者は最早、笹倉秀夫(丸山眞男門下)など一部の化石化した確信犯的な左翼しか残っていない。このように基礎法学(理論法学)分野でほぼ一掃された論説を、応用法学(実定法学)分野である憲法学で未だに前提として理論を展開し続けるのはナンセンスであるばかりか知的誠実さを疑われても仕方がない行いであり、日本の憲法学の早急な正常化が待たれる。(※なお、近年の左翼憲法論をリードし「護憲派最終防御ライン」と呼ばれている長谷部恭男は、芦部門下であるが、ハートの法概念論を正当と認めて、芦部説にある自然法・根本規範・制憲権といった超越的概念を明確に否定するに至っている。) (★注3)「法=社会的ルール説」は20世紀初頭に英米圏で発展した分析哲学の成果を受けて、1960年以降にイギリスの法理学者H. L. A. ハートによって提唱され、現在では英米圏の法理論の圧倒的なパラダイムとなっている法の捉え方である。 ※以下、「法=社会的ルール説」の法体系モデル。また阪本昌成『憲法理論Ⅰ』第二章 国制と法の理論も参照。 ※サイズが画面に合わない場合はこちら及びこちらをクリック願います。 ※上記のように、ハートの法=社会的ルール説は、現実の法現象について詳細で明晰な分析モデルを提供しており、特定の価値観・政治的イデオロギーに基づく概念ピラミッドに過ぎない法=主権者意思[命令]説の法体系モデルを、その説得力において大幅に凌駕している。 ※なお、自由を巡る西洋思想の二つの潮流について詳しくは ⇒ 国家解体思想の正体 参照 ※(補足説明)ハートの法=社会的ルール説のいう「ルール(rule)」という用語は、図にあるように、①事実(外的視点からの捉え方)と②規範(内的視点からの捉え方)の二重構造(=観測者から見れば①事実(社会的事実)だが、法共同体の構成員から見れば②規範だ、という③第3のカテゴリー)になっている、という独特の意味で使用されており、①事実と②規範を峻別する方法二元論(ケルゼンら新カント学派の方法論)と大きく異なっている点に注意(→こうした①事実でもあり②規範でもある③第3のカテゴリーの導入によって、ハート理論は「単なる①事実(=認識)から、なぜ②規範(=価値判断)が生まれるのか」という難問のクリアを図っている)。 ■4.法思想・政治思想を理解する為の様々な概念 ※各概念についての詳しい内実の説明ページが必要(順次作成予定)。なお 政治思想(用語集)参照 ※サイズが合わない場合はこちらをクリック ■5.代表的な思想家(法思想・政治思想)と評価 № 有益な思想家 主著 評価 説明 1 A.ハミルトン(1755?-1804、米) 『ザ・フェデラリスト』(1788)(マジソン、ジェイと共著) 有益度 S アメリカ独立戦争でワシントンの副官として活躍。その後13邦に分立したままのアメリカを一つの連邦にまとめる合衆国憲法案の批准を訴える論説をJ.マジソン、J.ジェイと共にニューヨーク州の新聞に連載し合衆国発足に貢献。その論説集『ザ・フェデラリスト』は現在に至るまで合衆国憲法の最良のコンメンタール(注釈書)として揺ぎ無い地位を保ち続けている。 2 E.バーク(1729-1797、英) 『フランス革命の省察』(1790) 有益度 S 当時英国領であったアイルランド出身のホイッグ党(自由党の前身)の有力下院議員。アメリカ独立戦争では植民地側に理があるとしてこれを支援したが、フランス革命が勃発すると逸早くその全体主義的・狂信的本質を見抜いて、これを糾弾する名著『フランス革命の省察』を著し英国のフランス革命反対の世論形成に大きく貢献した。 3 F.A.ハイエク(1899-1992、オーストリア→英) 『隷従への道』(1944)『自由の条件』(1960)『法と立法と自由』(1973-79) 有益度 S ノーベル経済学賞を受賞。しかし「隷従への道」執筆後は経済学に加えて法思想・政治思想の分野を総合した哲学者として晩年まで精力的に活躍。第二次世界大戦を挟んで膨張する一方の社会主義に警鐘を鳴らし、自由主義の価値を訴え続けた。1970年代末に始まる英国のサッチャー改革はハイエクの思想をバックボーンとして実行された。⇒リベラリズムと自由主義 ~ 自由の理論の二つの異なった系譜 4 K.R.ポパー(1902-1994、オーストリア→英) 『開かれた社会とその敵』(1945)『歴史(法則)主義の貧困』(1957) 有益度 S ハイエクと共に、マルクス主義・全体主義の似非科学性を厳しく追及・糾弾し、相互批判に向けて開かれた自由な社会を擁護し続けた。なお上記の様にポパーの名著『The Poverty of Historism』は日本では左翼文化人の久野収によってワザと『歴史主義の貧困』と誤訳されている。 № 有害な思想家 主著 評価 説明 1 T.ホッブズ(1588-1679、英) 『リヴァイアサン』(1651) 有害度 S 英国の清教徒革命(1640-60)期にスチュアート王朝もクロムウェルの共和制も双方とも擁護可能な御用理論として『リヴァイアサン』を著し、一旦社会契約を交わして国家を創立した後には、人民は国家に対する絶対的服従を要求される、とした。 2 J-J.ルソー(1712-1778、スイス→仏) 『社会契約論』(1762)『人間不平等起源論』(1755) 有害度 S 社会契約を締結した人間は、その契約の結果形成される「一般意思」に完全に従属する(喜んで従う)、とする個人の自由意志を完全に滅失した集団主義的・全体主義的思想(Collectivism:集産主義と訳す)を唱えて、フランス革命やヘーゲル更にマルクスの思想に大きな影響を及ぼした。 3 G.W.F.ヘーゲル(1770-1831、ドイツ) 『歴史哲学』(1840)、『法哲学』(1821) 有害度 S ドイツ観念論の大成者。「歴史とは世界精神(世界を支配する絶対的な理性原理)の展開過程である」とする歴史法則主義を唱えて、マルクスの思想に多大な影響を与えた。 4 K.H.マルクス(1818-1883、ドイツ) 『共産党宣言』(1848)、『資本論』(1867) 有害度 S ヘーゲル左派から出発し、F.エンゲルスと出会って以降フランスなどで提唱されていた初期の社会主義(空想的社会主義)に接近。これに科学の装いを施し「共産主義社会の出現は歴史的必然である」とする科学的社会主義(マルクス主義)思想を打ち立て、さらにプロレタリア革命を実現するための実力行使を広く呼びかけた。 ※上記のように英語圏では常識である自由主義擁護の大思想家(ハミルトン・バーク・ハイエク・ポパー)の著作は、日本では殆ど紹介されず、学校でも全く教えられていない。 逆に下段の全体主義・共産主義を生み出した狂気の思想家達(ホッブズ・ルソー・ヘーゲル・マルクス)はまるで世界の偉人であるかのような大きな扱いを受けている。 ■6.日本における代表的な憲法論の内容紹介と評価 日本の様々な憲法論を政治的スタンスに当て嵌めて概括すると下表のようになる。 ※サイズが画面に合わない場合はこちらをクリック願います。 政治的スタンス 代表的論者 ベースとなる思想家/思想 補足説明 詳細内容 (1) 極左 伊藤真など護憲論者 J.-J.ルソーの社会契約論からさらに、アトム的個人主義と集産主義の結合形態(=左翼的全体主義)※説明に接近 「人権」「平和」を過度に強調し絶対視する共産党・社民党・民主党左派系の法曹に多い憲法論でありイデオロギー色が濃く法理論というよりは左翼思想のプロパガンダである(左の全体主義) (2) 左翼 芦部信喜高橋和之 修正自然法論(法=主権者意思[命令]説に自然法を折衷)+J.-J.ルソーの社会契約論 宮沢俊義→芦部信喜と続く戦後日本の憲法学の最有力説であり通説※宮沢は有名なケルゼニアン(ケルゼン主義者)。芦部は自然法論者だが人権保障をア・プリオリ(先験的)な「根本規範」と位置づけており、その表面的な米国判例理論の紹介はポーズに過ぎず、実際には依然ケルゼン/ラートブルフ等ドイツ系法学の影響が強い よくわかる現代左翼の憲法論Ⅰ(芦部信喜・撃墜編) (3) リベラル左派 長谷部恭男 H.L.A.ハートの法概念論(法=社会的ルール説)を一部独自解釈※なお長谷部は社会契約論に依拠しているのか曖昧でハートの法概念論と辻褄が合うはずのハイエクの自由論は故意に無視している 近年の左派系憲法論(護憲論)をリードしている長谷部は芦部門下であるが、師のようなドイツ系法学パラダイムはもはや世界の憲法学の潮流からは通用しないことを認識しており、師の憲法論の中核である、①根本規範を頂点とした法段階説+②制憲権(憲法制定権力)説、を明確に否定して、英米系法学パラダイムへの接近を図っている。(※但しハートまでは受容しながらもハイエクを拒否している長谷部の憲法論は中途半端の誹りを免れず、これを一通り学んだ後は、より整合性のとれた阪本昌成の憲法論へと進むべきである) よくわかる現代左翼の憲法論Ⅱ(長谷部恭男・追討編) (4) 中間 佐藤幸治 人格的自律権に限定して自然法を認める独自説+J.ロックの社会契約論 芦部説の次に有力な憲法論であり、芦部説よりも現実妥当性が高いので重宝されるが(佐藤は佐々木惣一から大石義雄へと続く京都学派憲法学の系統)、法理論としては妥協的でチグハグと呼ばざるを得ない 佐藤幸治『憲法 第三版』抜粋 (5) リベラル右派 阪本昌成、※ H.L.A.ハートの法概念論(法=社会的ルール説)+F.A.ハイエクの自由論 20世紀後半以降の分析哲学の発展を反映した英米法理論に基礎を置く憲法論であり、法理論としての完成度/説得力が最も高いが、日本では残念ながら非常に少数派 阪本昌成『憲法1 国制クラシック』 (6) 保守主義 中川八洋日本会議 E.コークの「法の支配」論+E.バークの国体論 日本会議・チャンネル桜系の憲法論も基本的にこちらに該当する。法理論というより「国民の常識」論であり、心情面からの説得力が高いが、(5)の法理論を一通り押えた上でこの立場を取らないと、いつの間にか(7)に堕する危険があるので注意。 中川八洋『国民の憲法改正』抜粋 (7) 右翼・極右 いわゆる無効論者 ヘーゲルの法概念論・共同体論およびそれに類似した全体主義的論調 「伝統」「国体」などを過度に強調し絶対視して「右の全体主義」化した憲法論(左翼憲法論の裏返しであり、左翼からの転向者が嵌り易い。法理論というより右翼イデオロギーのプロパガンダ色が濃い) ※政治的スタンス5分類・8分類+円環図 ※サイズが合わない場合はこちらをクリック ⇒上図の詳しい説明は、政治の基礎知識、政治学の概念整理と、政治思想の対立軸 参照。 政治的スタンス毎の憲法論の違いは、①「人権」と②「国民主権」の捉え方に顕著に現れる。このうち、①「人権」に関しては、「国民の権利・自由」と「人権」の区別 ~ 人権イデオロギー打破のためにを参照。政治的スタンス毎の「国民主権」論比較・評価では、(2)~(6)の各々の政治的スタンスの代表的な②「国民主権」論を列記したのち、総括する。 ■7.参考図書 『法学 (ヒューマニティーズ) 』 (中山竜一:著 (2009年))《目次》1. 法学はどのようにして生まれたか(なぜ法の歴史について学ぶ必要があるのか (西洋法の歴史 ほか)2. 生きられる空間を創る―法学はどんな意味で社会の役に立つのか(法に期待される役割と背景にある思想 (活動促進と紛争解決―民事法の役割 ほか)3. 制度知の担い手となる―法学を学ぶ意味とは何か(法学を学ぶ意味とは? (法的思考のいくつかの特徴―哲学との対比 ほか)4. 法学はいかにして新たな現実を創り出すのか―法学と未来 (法的思考で現実は変えられるか、難事案をどのように判断するか(一)―ドゥオーキンの構成的解釈 ほか)5. 法学を学ぶために何を読むべきか (BOOK GUIDE) ドイツ系(大陸系)哲学をベースにした従来の観念論的な「法哲学」ではなく20世紀後半以降に大発展した英米系分析哲学をベースとする「法理学」への扉を開く一冊。左右の全体主義に陥らない法学基礎理論の第一歩として非常にお勧め。なお、これとの対比で従来型の特定の観念・思想ゴリオシ型の「法哲学」の教科書として、笹倉秀夫『法哲学講義』を挙げておくので、興味のある人はこの両者の法理論を比較してみられるとよい。(笹倉秀夫氏は丸山眞男の弟子で、同書も強度の左翼思想と自虐的史観に満ちており、現在の目で見ると明らかに特定思想のゴリオシが目立ち失笑ものである) 『二十世紀の法思想』 (中山竜一:著 (2000年))《目次》第1章 20世紀法理論の出発点―ケルゼンの純粋法学第2章 法理論における言語論的転回―ハートの『法の概念』補論 ハート理論における「法と道徳」第3章 解釈的実践としての法―ドゥオーキンの解釈的アプローチ第4章 ポストモダン法学―批判法学とシステム理論補論 脱構築と正義―デリダ「法の力」第5章 むすび 『法学(ヒューマニティーズ)』と併せて読んで欲しい。20世紀後半に起こった、ケルゼンに代表されるドイツ系(大陸哲学系)法学から、ハートに代表される英米系(分析哲学系)法学へのパラダイム・シフト(法理論における言語論的転回)に焦点を当てた好著。なお20世紀哲学の最大事件「言語論的転回」については『分析哲学講義』(青山拓央:著)が分かり易い。 『現代法理学』 (田中成明:著 (2011年))《目次》序論 法理学の学問的性質と役割第1編 法動態へのアプローチ(第1章 法への視座、第2章 法システムの機能と構造、第3章 法の三類型モデル)第2編 法システムの基本的特質(第4章 自然法論と法実証主義、第5章 法と道徳、第6章 法と強制)第3編 法の基本的な概念と制度(第7章 権利と人権、第8章 犯罪と刑罰、第9章 裁判の制度的特質と機能)第4編 法の目的と正義論(第10章 法と正義、第11章 実践的議論と対話的合理性、第12章 現代正義論の展開)第5編 法的思考と法律学(第13章 裁判過程と法の適用、第14章 戦後の法解釈理論の展開、第15章 法的思考・法的議論・法律学、第16章 法的正当化の基本構造) 憲法その他の実定法をいかなる思想を持って定立すべきかを、かってのドイツ系の「法哲学(legal philosophy)」の立場からでなく、英米系の「法理学(jurisprudence)」の立場から考える重要な一冊。著者・田中成明氏は前記の中山竜一氏の師にあたる法理学者であり、本書は現在の日本の法理学(法哲学)の一応の最高到達点を示している(※但し、佐藤幸治氏と同じく京都学派に当たる田中氏は政治的スタンス分析では中間派に該当し、その主張内容には残念ながら些か中途半端で不徹底な所がある)。 『自由の条件』(全3巻) (F.A.ハイエク著(1960))《目次》第一部 自由の価値第二部 自由と法第三部 福祉国家における自由 自由主義の真髄を解き明かしてM.サッチャー(英元首相)のバイブルといわれた名著であり、自由と法の関係についてきちんとした知識を持つ上で必読の3巻本。続編の『法と立法と自由』も3巻本で、一冊一冊が高価だが、図書館などで見つけて目を通して欲しい。論旨明快なため、内容はさほど難しくないはず。 『法の概念』 (H.L.A.ハート著(1961年)) 20世紀後半の法理論に大転回をもたらした記念碑的な一冊であり、現在の法を学ぶ者は避けては通れない名著。しかし一般向けにも興味深いテーマを多く扱っており、また用語も難解でないので読みやすい。法学徒は必読だろうが、そうでない普通の人にもオススメできる。《以下概要》本書では、まず「法は威嚇による命令である」という説を批判する。その上で、法を第一次的ルールと第二次的ルールとに分ける。第一次的ルールとは、制裁をもってして何らかの行動を強制するものである。第二私的ルールとは、法として有効である権能を与える(契約・立法・裁判など)ものである。法は不確定性をともなうので、法の周縁部においては常に解釈がともなう。他。 『公正としての正義 再説』 (J.ロールズ著 (2004年))《目次》第1部 基礎的諸観念(政治哲学の四つの役割 (公正な協働システムとしての社会 ほか)第2部 正義の原理 (三つの基本的な要点、正義の二原理 ほか)第3部 原初状態からの議論 (原初状態―その構成、正義の環境 ほか)第4部 正義に適った基本構造の諸制度 (財産私有型民主制―序論、政体間の基本的対比 ほか)第5部 安定性の問題(政治的なものの領域、安定性の問題 ほか) J.ロールズ著『正義論』といえば自虐的史観ではないマトモな左翼(=リベラル左派)のバイブル的基礎理論書であるが、本書は『正義論』以降の思想的発展を綴ったロールズ晩年の草稿を弟子エリン・ケリーがまとめたエッセンス本である。現代リベラル思想を代表するロールズの理論は難解だが、左派系の政治思想・法思想を押さえ的を外さずに批判・論撃する上で本書を批判的に読み込んでおく必要がある。 憲法1 国制クラシック、憲法2 基本権クラシック著者・阪本昌成氏(近畿大学教授・憲法学者)はハイエクの自由論とハートの法概念論をベースに自由主義的憲法学を展開する稀有の碩学。右記の2冊本は保守のための憲法基本書として唯一無二の価値を持つ名著であり、宮沢俊義→芦部信喜と続く左翼憲法学の誤謬を完膚なきまでに粉砕する内実を備えている。2冊とも2011年秋に改訂されており、最新の判例をも取り込んでいるところも嬉しい。※重要参考ページ⇒ 1. 阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)⇒ 2. 阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)} ■8.各国の憲法と政治 ※各国別に詳しい内実の説明ページが必要(今後作成予定)⇒日本の状況が相対的に理解できるよう記述予定。 国名 憲法 該当ページ (1) イギリス イギリスの憲法(不文憲法) イギリス憲法と政治 (2) アメリカ アメリカ合衆国憲法 アメリカ憲法と政治 (3) フランス フランス共和国憲法 フランス憲法と政治 (4) ドイツ ドイツ連邦共和国基本法 ドイツ憲法と政治 (5) 韓国 大韓民国憲法 (6) 日本 日本国憲法 明治憲法の真実 日本国憲法改正問題(上級編) ■9.ご意見、情報提供 ↓これまでの全コメントを表示する場合はここをクリック +... 福祉国家否定したら戦後の自民はどうなるんだよ -- 名無しさん (2013-03-01 05 24 11) 自民党は保守というか穏健左派の集まりだしな -- 名無しさん (2013-04-28 22 46 10) 個別で見ていけば右派的な人もいるが、全体で見れば中道左派だよな。 -- 名無しさん (2013-05-06 21 50 59) 以下は最新コメント表示 福祉国家否定したら戦後の自民はどうなるんだよ -- 名無しさん (2013-03-01 05 24 11) 自民党は保守というか穏健左派の集まりだしな -- 名無しさん (2013-04-28 22 46 10) 個別で見ていけば右派的な人もいるが、全体で見れば中道左派だよな。 -- 名無しさん (2013-05-06 21 50 59) 名前 ラジオボタン(各コメントの前についている○)をクリックすることで、そのコメントにレスできます。 ■左翼や売国奴を論破する!セットで読む政治理論・解説ページ 政治の基礎知識 政治学の概念整理と、政治思想の対立軸 政治思想(用語集) リベラル・デモクラシー、国民主権、法の支配 デモクラシーと衆愚制 ~ 「民主主義」信仰を打ち破る ※別題「デモクラシーの真実」 リベラリズムと自由主義 ~ 自由の理論の二つの異なった系譜 ※別題「リベラリズムの真実」 保守主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ ナショナリズムとは何か ケインズvs.ハイエクから考える経済政策 国家解体思想(世界政府・地球市民)の正体 左派・左翼とは何か 右派・右翼とは何か 中間派に何を含めるか 「個人主義」と「集産主義」 ~ ハイエク『隷従への道』読解の手引き 最速!理論派保守☆養成プログラム 「皇国史観」と国体論~日本の保守思想を考える 日本主義とは何か ~ 日本型保守主義とナショナリズムの関係を考える 右翼・左翼の歴史 靖國神社と英霊の御心 マルクス主義と天皇制ファシズム論 丸山眞男「天皇制ファシズム論」、村上重良「国家神道論」の検証 国体とは何か① ~ 『国体の本義』と『臣民の道』(2つの公定「国体」解説書) 国体とは何か② ~ その他の論点 国体法(不文憲法)と憲法典(成文憲法) 歴史問題の基礎知識 戦後レジームの正体 「法の支配(rule of law)」とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 立憲主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 「正義」とは何か ~ 法価値論まとめ+「法の支配」との関係 正統性とは何か ~ legitimacy ・ orthodoxy の区別と、憲法の正統性問題 自然法と人権思想の関係、国体法との区別 「国民の権利・自由」と「人権」の区別 ~ 人権イデオロギー打破のために 日本国憲法改正問題(上級編) ※別題「憲法問題の基礎知識」 学者別《憲法理論-比較表》 政治的スタンス毎の「国民主権」論比較・評価 よくわかる現代左翼の憲法論Ⅰ(芦部信喜・撃墜編) よくわかる現代左翼の憲法論Ⅱ(長谷部恭男・追討編) ブログランキング応援クリックをお願いいたします(一日一回有効)。 人気ブログランキングへ
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佐藤幸治『憲法 第三版』(1995年刊) 第一編 憲法の基本観念と日本国憲法の展開 第一章 憲法の基本観念 <目次> ■1.第一節 憲法の生成と展開◆Ⅰ 「憲法」の語 ◆Ⅱ 立憲主義の成立と展開◇(1) 近代以前と立憲主義 ◇(2) 近代立憲主義の登場 ◇(3) 成文憲法の普遍化 ◆Ⅲ 現代立憲主義◇(1) 近代立憲主義の変容 ◇(2) 積極国家(社会国家)化 ◇(3) 議会制の変貌 - 政党国家 ◇(4) 行政権の役割増大 - 行政国家 ◇(5) 憲法の規範力強化への試み - 司法国家 ◇(6) 平和国家への志向 ◇(7) 憲法とその措定する人間像の変容 ◆Ⅳ 社会主義国家の憲法◇(1) 社会主義国家の出現と展開 ◇(2) 社会主義憲法の特徴 ◇(3) 社会主義国家の激変 ■2.第ニ節 憲法の意義・種別・特性・効力◆Ⅰ 憲法の意義◇(1) 実質憲法と形式憲法 ◇(2) 固有の意味の憲法と立憲的・近代的意味の憲法 ◇(3) 法規範としての憲法と事実状態としての憲法 ◇(4) 実定法的意味の憲法と法論理的意味の憲法 ◆Ⅱ 憲法の種別◇(1) 存在形式による種別 ◇(2) 改正手続による種別 ◇(3) 制定権威の所在による種別 ◇(4) 規定内容による種別 ◇(5) 一種の存在論的な種別 ◆Ⅲ 憲法の特性◇(1) 総説 ◇(2) 憲法の授権規範性 ◇(3) 憲法の最高法規性 ◇(4) 憲法と国際法 ◆Ⅳ 憲法の法源と効力◇(1) 憲法の法源 ◇(2) 憲法典の地位と機能 ◇(3) 憲法の前文の効力 ◇(4) 憲法判例 ◇(5) 憲法と国際法(イ) 国際法と国内法との関係 (ロ) 憲法と国際法の国内法的効力 (ハ) 国際法の国内法秩序における効力順位 ■3.第三節 憲法の変動と保障◆Ⅰ 憲法の変動◇(1) 憲法の性質 ◇(2) 憲法変動の諸態様 ◆Ⅱ 憲法の改正◇(1) 総説 ◇(2) 改正の手続(イ) 手続の諸類型 (ロ) 日本国憲法の改正手続(a) 総説 (b) 国会の「発議・提案」 (c) 国民の「承認」 (d) 天皇の「公布」 ◇(3) 憲法改正行為の性質と限界(イ) 改正権の本質 (ロ) 改正の限界(a) (b) (c) (d) ◆Ⅲ 憲法の変遷◇(1) 憲法変遷の意味 ◇(2) 評価(イ) (ロ) (ハ) ◆Ⅳ 憲法の保障(合憲性の統制)◇(1) 憲法の保障の意義と諸方法(イ) 意義 (ロ) 諸方法 ◇(2) 憲法尊重擁護の責任と義務(イ) 公務員の憲法尊重擁護義務 (ロ) 国民の憲法尊重擁護の責任 ◇(3) 非常手段的憲法保障(イ) 総説 (ロ) 国家緊急権をめぐる問題(a) 意義 (b) 国家緊急権と日本国憲法 (ハ) 抵抗権(a) 意義 (b) 抵抗権行使の条件 ■4.第四節 憲法と国家と主権◆Ⅰ 国家◇(1) 国家の概念 ◇(2)国家の法人格性(イ)国家の法人格性 (ロ)国家法人説 ◆Ⅱ. 主権◇(1)主権観念の展開(イ)主権観念の登場 (ロ)国民主権・人民主権 (ハ)国家主権権 (ニ)実力としての憲法制定権力 ◇(2)実定法上の主権観念 ■1.第一節 憲法の生成と展開 ◆Ⅰ 「憲法」の語 「憲法」という語は、 ① おきて、のり、というように法一般の意味と、 ② 国家の基本にかかわる根本法という意味 との二つを含む。 ①は古い用法で、「十七条憲法」がその典型例であるが、明治に入ってもかかる用例が認められる(例、木村正辞編・憲法志料)。 ②は、明治維新後、英語の constitution (仏語も同じ)の訳語として新しく登場したものである(例、林正明訳・合衆国憲法)。 徳川末期に constitution に接して以来、それにあたる言葉として「国憲」、「政規」、「国制」、「政体」など様々のものが案出されたが(明治維新直後に公布された「政体書」は constitution に相当するもの)、明治15年の頃より公定用語として「憲法」の語が使用されるようになり(伊藤博文を「憲法取調」べのため欧州に派遣するにあたっての勅語の中に、「欧洲各立憲君治国ノ憲法ニ就キ其淵源ヲ兼ネ其沿革ヲ考ヘ其現行ヲ視利害得失ノ在ル所ヲ研究スヘキ事」とある)、明治22年に「大日本帝国憲法」が公布されるに及んで、constitution に相当するものとしての「憲法」の用法が決定的なものとなった。 ところで、constitution はラテン語の constitutio に由来するが(constitutio は皇帝の制定法とか、後には教会の規則などを意味した)、当初は国家の法一般の意味で用いられたようである。 しかし、国家の全法秩序の中には、より基礎的な根本法(fundamental law)があるという観念がイギリスにおいて成立し、それとロックに代表される自由主義的な近代自然法思想における社会契約の観念とが結合して、ここに国家の根本法としての近代的な憲法観念が成立し、そのような姿において constitution が徳川末期に我が国に入ってきたのである。 ◆Ⅱ 立憲主義の成立と展開 ◇(1) 近代以前と立憲主義 憲法は、最広義においては、およそ国家の組織・構造の基本に関する法を意味する。 かかる意味での憲法なき国家はあり得ず、それはあらゆる時代のあらゆる国家について妥当する。 ところで、およそ国家統治の本質は権力であり、その権力の背後には顕在的もしくは潜在的に強制力が控えている(レーヴェンシュタイン)。 原初的段階にある国家にあっては、この権力を扱う権力保持者による権力服従者に対する権力行使のあり方に関し、何らかの拘束力ある明確な規則というようなものはなく、宗教的信条とか伝統的な慣習あるいはときには単なる便宜ないし恣意に委ねられていた。 しかし、人間の本性の省察に基づき、権力保持者による権力の濫用を抑制するための装置を積極的に創出し、それを政治過程に嵌め込むことによって、あるべき国家体制の保全を図り、権力名宛人の利益を守ろうとする努力がみられるようになってくる。 我々は、それを既に古典古代ギリシャ、ローマにおいてみることができる(ギリシャ人は、自由社会を自分たちの言葉として語り、意識し、それを築こうとした最初の人間であるということは広く承認されている)。 そこでは、政治権力を幾つかに分割し、それらの相互的な牽制によって権力の濫用を防止しようとする様々な試みがなされている。 このように権力保持者による権力濫用を意識的に阻止し、権力名宛人の利益保護を憲法の終局の目的と捉えた場合、この段階に至ってはじめて人類は憲法をもったと称することができる。 ここにおいてはじめて憲法に基づいて政治を行なうということの意義が認められるもので、これを立憲主義と呼ぶならば、立憲主義は近代固有のものではなく、既に古典古代において成立していたということができる。 これを立憲主義の第一段階ないし古典的立憲主義と呼ぶことにする。 この立憲主義は中世およびルネサンス期のイタリアの都市国家などでもみられるもので、とりわけヴェネツィア共和国は、権力濫用を抑制し独裁的な絶対主義を阻止するための極めて複雑かつ多元的な抑制・均衡のシステムを案出し保持したことで知られている。 ◇(2) 近代立憲主義の登場 古典的立憲主義は、中世の封建体制下において、また近代絶対主義国家における君主の圧倒的な支配の前に、背後に退くことを余儀なくされたが、近代市民革命を契機に、新たな理念と構想の下に再生した。 近代市民革命は、市民階級の経済活動面における絶対君主制に対する不満を梃子に、かつ、ルネッサンス運動期に醸成された個としての自覚を媒介とする個人の自由という基本観念の下に、生起したといわれる。 つまり、近代市民革命は、国家(公)に対して個人の自由の領域(私的領域)の存在を設定し、かつそれを積極的に評価し、国家(公)はかかる私的領域の確保のためにこそ存在理由があり、従って国家の活動もそのような目的のためのものに限定されると捉えるところに本質をもち、そのための具体的方策として憲法の意義が明確に自覚され、そのあり方をめぐる認識が深められるところとなったのである。 かくして国民の自由・権利と、そのための権力の構成と行使のあり方を、正式な文章において確認するという考え方が生まれた。 議会制が発達し、マグナ・カルタやコモン・ローの発展などによって国王の権力濫用に対する抑制装置が既に十分に確立されたイギリスでは成文憲法の制定をみるところとはならなかったが(もっとも、クロムウェルの統治典範(インストルメント・オブ・ガヴァメント)(1653年)のような例がみられた)、アメリカやフランスにおいて相次いで成文憲法の制定をみるに至った。 1776年のヴァージニア権利章典はロック流の天賦人権・国民主権・革命権などを規定し、次いで採択された「政府の組織(Frame of Government)」において権力分立機構を定め、ここに近代的成文憲法の範型が成立した。 1789年のフランスの「人および市民の権利宣言」は、「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもつものではない」(16条)と宣明しているが、我々はここに近代立憲主義の心髄の簡潔な要約をみることができる。 立憲主義といっても、上述の古典的立憲主義は、国家(公)に対する「私」の積極的評価の観念の下に成立したものではなく、むしろ個人の幸福は国家の幸福(公的幸福)の中にこそ存するとの考え方を基盤とするものであった点が注意されなければならない。 このように近代立憲主義は、成文憲法を制定して個人の人権を保障し、権力分立を定め、その一環として国民の国政参加への途を開いたが(従って、近代立憲主義は同時に立憲民主主義であった)、しかし、近代立憲主義は国民大衆の積極的な政治参加に必ずしも好意的ではなかったという側面をもっていたことに注目する必要がある。 元来革命というものは国民に直結する議会に権力を集中しようとする傾向(いわゆる会議制的統治形態)をもつが、アメリカの諸邦でも当初議会全能の傾向を現出せしめた。 そのことは革命保守派の警戒心を強めるところとなり、ここに主権者たる国民を憲法制定権力として把握し、国民の直接の関与の下に成立した憲法をもって議会の活動を抑制しようとする構想が登場することになる。 1780年のマサチューセッツ憲法がそれで、憲法制定に憲法制定会議と人民投票を採用した最初の憲法であるが、それは国民主権を建前としてたてつつ議会の権力を抑え込もうとする巧妙な考案であった。 1788年発効の合衆国憲法は、このマサチューセッツ憲法の延長線上にあるといえる。 違憲立法審査制もかかる背景において生まれてくる。 フランスでは、中道左派を多数とする国民議会が、1789年の人権宣言を前文とする憲法を1791年に成立せしめたが、この憲法では、人民大衆に対する警戒から、意識的にルソー流の「人民主権」を避けて「国民主権」とされ、主権者たる国民はただ「委任」によってのみその主権を行使できるものとされた(この点については、第四節Ⅱ(57頁)で論及する)。 この「委任」は包括的・集団的な代表委任であって、代表者を拘束するような国民の意思の存在は忌避され、代表者は国民の選挙によって選ばれることを不可欠の要素としなかった(議会とともに国王も代表者とされた)。 英米でもフランスでも制限選挙制であった。 ◇(3) 成文憲法の普遍化 18世紀末のアメリカおよびフランスにおける成文憲法の制定は他の諸国にも強い刺激となり、19世紀に入ると国家という国家のほとんどが成文憲法を制定するようになった。 君主国とて例外ではなかった。 かかる現象を捉えて19世紀は「憲法の世紀」とも呼ばれることがあるが、成文憲法の普遍化時代であり、立憲主義の第三段階と称することもできよう。 ただ、それとともに、超越的ないし道徳的な自然権思想が後退して実証主義的な権利観念が強まり、憲法概念も、価値的ないし目的的要素を希薄化ないし消失せしめて、形式化していった。 そうした傾向の中で、立憲主義の外見によって旧体制の温存を図ろうとするようなものもみられるようになる。 いわゆる外見的立憲主義である。 大日本帝国憲法もかかる系譜に連なるものである。 このような限界はあったが、成文憲法の普遍化という現象は、後の世代がより徹底した自由・権利の保障と民主主義を要求する基盤を提供するという機能を果たした点は看過してはならないであろう。 ◆Ⅲ 現代立憲主義 ◇(1) 近代立憲主義の変容 既に示唆したように、近代立憲主義は、各個人の自由かつ自律的な活動の中にこそ人間の幸福の鍵があり、各個人の競合のうちに見えざる手の働きにより社会的調和が形成維持されると措定し、国家は個人のかかる自由な活動と社会の自律的運行の外的条件の必要最小限の整備にその役割を限定されるべきで、極端に表現すれば国家権力の活動の場が少なければ少ない程よいとの考え方に立脚していた(消極国家ないし最小限国家)。 かかる考え方と制度を背景に、経済面についていえば、資本主義が進展するところとなったが、しかし、それとともに国民の間に貧富の差が拡大し、各種の矛盾と社会的緊張を惹起するところとなった。 人間の自由・権利の享受の実質的平等を要求し、政治の民主化を通じてその達成を図ろうとする動きが顕著となり、それとの対応において近代立憲主義も変容を迫られるところとなった。 ◇(2) 積極国家(社会国家)化 右の動きに対して政府は当初強圧策をとったが、やがて国民の社会・経済生活に積極的に介入し、経済危機の回避と社会的緊張の緩和に努めるようになった(積極国家化)。 政府自らによる積極的な産業基盤の整備、厖大な国家財政資金の投融資などの推進、最低賃金・労働時間規制法などの制定、各種社会保障政策の積極的展開がそれである。 かかる傾向を、憲法レヴェルではじめて体系的に表現したのがドイツの1919年のワイマール憲法であった。 同憲法は、「所有権は義務を伴う。その行使は、同時に公共の福祉に役立つべきである」(153条)と規定し(こうした規定の仕方は、「権利の倫理化」傾向を示すものといえる)、社会権的基本権と呼ばれる労働基本権などの保障や包括的保険制度の設立などについて規定するに至った。 その後生まれた憲法は、多かれ少なかれこの種の規定を採り入れた。 その傾向はとりわけ第二次大戦後顕著であって、1946年のフランス第四共和制憲法は自らを「社会的共和国」と宣言し、1947年のイタリアの憲法は「労働に基礎をおく民主共和国」と謳い、1949年のドイツの憲法はその性格規定として社会的法治国家たる旨宣言した。 なお、二世紀程前の憲法がなお妥当しているアメリカ合衆国の場合は、社会権的基本権が憲法上明記されるには至っていないが、憲法判例の変更の結果労働条件などの改善に関する法制化が進み、また既存の平等条項やデュー・プロセス条項などの解釈操作を通じて社会権的なものを憲法的に保障しようとするようになっている。 もっとも、この社会権的基本権が現代国家の憲法の人権保障体系の一大支柱をなすに至ったとしても、そのことは、自由主義的な近代国家を基礎づけた自由権的基本権体系と権力分立ないし抑制・均衡の体系を放擲し、あるいはそれを単に克服さるべき対象として捉えるに至ったことを意味しない。 むしろ、両者の調和ある共存を企図しているところに現代立憲主義の特徴がある。 そのことは、ドイツの憲法が社会的《法治国家》性を謳っていることの中にも示されている。 ただ、社会国家の追求は、国家の巨大化・硬直化を内包する“管理化国家”ともいうべき事態を惹起する危険を随伴していることは否定できない。 ◇(3) 議会制の変貌 - 政党国家 一般に(アメリカの場合はやや事情を異にするが)近代議会制は、国民代表観念により選挙民の指図から解放された議員よりなる議会に、国民の自由の守護と統合の機能を発揮せしめようとした。 が、資本主義の進展に伴う社会的矛盾と緊張を背景とする政治の民主化の要求の高揚は、選挙権の拡大(終局的には普通選挙の確立)を帰結するところとなり、それと共にかってのように議会の超然さを許さなくなり、むしろ議会は実在する民意を忠実に反映・代弁すべきであると考えられるようになる。 このような事態は、フランスでは、古典的な「純粋代表」に対比して「半代表」という言葉で表現されることがある。 イギリスにおいて、「法的主権は議会にあるが、政治的主権は選挙民にある」といわれるような事態も、かかる文脈において理解できるものである。 この過程で重要な役割を果たしたのは政党である。 そして政党は、組織化を強め、国政レヴェルにおけるその重要性を高めて行く(政党国家の現象)。 その結果、議員は議会における自由な討論に基づいて意思を形成し表決するというよりも、政党の党議に従って行動する存在と化し、議会における意思形成は政党間の確執と妥協の下に行なわれるようになる。 そして、社会の階級対立の激しさに比例して政党間の妥協が困難となり、議会の意思形成・統合能力を失わせることになり、ドイツのように「左」「右」の挟撃にあって議会制が沈没してしまうところも出てきた。 第二次大戦は、議会制を潰した後には結局最悪の圧制しかあり得ぬことを実感せしめるところとなって、大戦後種々の方策を講じて議会制の修復・維持が図られることになる。 この点については後に詳述するが、一つは、政党を憲法体系上明確に位置づけようとする試みであり、第二は、直接民主制の部分的導入と地方自治の拡充によって議会制を補完せしめようとする試みである。 ◇(4) 行政権の役割増大 - 行政国家 積極国家化は、政府による社会・経済過程へのきめ細かな対応・介入を随伴し、しかもこの対応・介入は立案された計画の下に進められることが要請される(計画行政)。 この計画化は、一方では資本主義体制下では果たして真に可能かという疑念(真の計画化は社会主義国家においてのみ可能であるという主張)、他方では“隷従への道”であるとの批判(ハイエク)に曝されながら、客観的事実としては国民の各生活領域におし拡げられ、それに随伴して行政権とりわけ官僚の役割増大を帰結している(行政国家)。 かってのような権威と統合機能を喪失した議会が、専門的知識と技術を要求される現代的行政需要に迅速かつ的確に対応することはあまり期待できない。 法律は行政をしばるというよりも、自由なる行政の根拠を一般的に提供するという役割を果たすことになりかねない。 かかる状況で編み出された一つの方途は、行政の長を国民の直接の選出にかからしめてその基盤を強化し、行政権に民意を反映させつつ官僚に対する指導力・統制力を発揮せしめようとすることである。 フランス第五共和制憲法下の大統領制は、その典型例である。 が、それは独裁制への危険を内包するとともに、そのような方途によって多面的な民意の各種行政への反映や行政の公正さを直ちに達成できるかの疑問は残る。 各種行政委員会や審議会の設置、オンブズマン構想、国民の権利に影響する計画策定や行政決定過程に利害関係者を参加せしめて適正さを確保しようとする試み(行政手続法制の整備)、情報公開制度の確立、行政の司法的統制強化への志向などは、リヴァイアサン化した行政国家に対する対応方法の模索を表わすものである。 ◇(5) 憲法の規範力強化への試み - 司法国家 議会の相対的地位の低下と関連して、憲法の規範力を裁判所を通じて確保・強化しようとする傾向が顕著となってきている点も、現代立憲主義の特徴である。 近代国家と比較して、現代国家における憲法の規範力の低下を指摘する声も強い。 が、アシカにそういえる余地のあることは否定できないとしても、少なくとも憲法制度的にみるならば、憲法の規範力強化への志向が顕著であることも事実である。 かつて議会は自ら憲法の擁護者をもって任じ、法律が人間理性の発露たる一般的・抽象的規範と観念されていた段階では、議会による憲法侵害という問題は顕在化せず、憲法と法律との質的区別さえそれ程明確ではなかった。 この点、革命初期の立法権全能思想の下での経験に照らして形成された憲法下において、いち早く違憲立法審査制を確立せしめたアメリカ合衆国の例はきわめてユニークなものであった。 それが、上述の議会制の凋落-立法権不信を背景に、かつ基本的人権保障の緊要性の自覚の下に、立憲民主制下の諸国の憲法体系に採り入れられるところとなったのである。 この推移は、「自然的正義」→「実定的正義」ないし「法的正義」→「憲法的正義」として表現されることがある(カペレッティ)。 もっとも、「憲法的正義」実現の方法は、各国の歴史的事情を反映して一様ではない。 裁判所に対する信頼感の強い英米法系の国では、通常の司法裁判所が「憲法的正義」の実現の主たる担い手となったのに対し、大陸法系の国では、憲法裁判所という特別の裁判所がその任にあたる傾向がある。 旧体制(アンシャン・レジーム)下における経験から伝統的に裁判所不信が強いフランスでは、裁判所以外の機関(第四共和制憲法下の憲法委員会、第五共和制憲法下の憲法院)に憲法審査を行なわせる傾向がある(憲法院の審査は予防的にすぎず、アメリカ型の付随的審査ともオーストリア=ドイツ型の抽象的審査とも異なるが、理由を付した形で審査結果が示され、1789年の人権宣言が審査基準とされるなど司法的審査への接近を思わせる。こうした憲法院の活動に伴って、憲法学の法律学化の傾向がみられるという)。 ◇(6) 平和国家への志向 元来戦争は立憲主義にとって最大の敵であるはずである。 とりわけ現代戦争は総力戦であって、人権(私的領域)の徹底的な制限・破壊を伴い、立憲主義体系に壊滅的な打撃となる。 第一次大戦、とくに第二次大戦はこのことを痛感せしめるところとなり、平和主義・国際協和主義への志向を憲法体系の中に取り込み、憲法自体において明記するものがみられるようになった。 1 1946年のフランス第四共和制憲法は、フランスが国際公法の規則に従うこと、制服を目的とする如何なる戦争も企てないことなどを宣言し(前文)、 2 1947年のイタリアの憲法も、イタリアは他国民の自由を侵害する手段として、および国際紛争を解決する方法として、戦争を否認し、他国と互いに等しい条件の下に、諸国家の間に平和と正義とを確保する秩序にとって必要な主権の制限に同意し、この目的を有する国際組織を推進し、助成すると規定している(11条)。 3 さらに、1949年のドイツの憲法も、ドイツは法律により主権作用を国際機関に移譲できるとし(24条1項)、また、平和維持のため相互集団安全保障制度に加入できるが、その際ヨーロッパおよび世界諸国民の平和的共同生活を妨害する恐れがありかつそのような意図で為された行為、とりわけ侵略戦争の遂行を準備する行為は違憲であり、かかる行為は処罰されるべきものと規定している(26条1項)。 4 日本国憲法の定める戦争放棄・国際協和主義もかかる文脈において理解され得るが、その中でも特筆すべき内容をもっている。 ◇(7) 憲法とその措定する人間像の変容 近代立憲主義には、いわば抽象的な「完全な個人」を措定し、そうした人間像を前提に人権や統治のあり方が考えられたようなところがある。 そして、「身分」からの自我の解放を目指した近代人にとって、集団ないし結社は自我の確立を妨げ、個人の自由な活動の前に立ち塞がり、あるいは公共性をかき乱し、安定した外的な統治機構を瓦解に至らしめるものと映じたようである。 しかし、現実の人間は、自己を取り巻く様々な社会経済的諸条件に縛られ、その関係する様々な人間集団の規律や方針などとの絡み合いの中で行為するところが少なくないはずである。 上述のように、資本主義の進展は、近代立憲主義がその出発点とした建前と現実との乖離を次第に露わなものとした。 ここに、社会の中における具体的人間に即して、権利の保障や統治のあり方が考えられるようになった。 社会権的基本権の保障に象徴される、上述の積極国家観の登場である。 人間にとっての集団の意義も自覚され、実際、各種組織が発生した。 しかし、そうした積極国家は、具体的人間像を出発点としながら、ともすると人間を抽象化し、管理化された機構の中に人間を封じ込めてしまう契機をもっているかにみえる。 全体主義はそうした危険の極大化現象ともいえるが、例えばドイツの憲法にみられるように、第二次大戦後生まれた憲法が「人間の尊厳」を謳っているのは、そうした経験の反省に基づくものである。 近代立憲主義が「完全な個人」を措定した点は問題だとしても、各個人が普遍的な「自然権」をもつとする道徳原理を基礎に据えながら、現実の国家状況の中で、そのような権利の具体化のあり方を探り続けることがますます重要な課題となっているといえよう。 現代人権論において、人格権とか人格的自律権の意義が説かれるのも、この課題と関係している。 ◆Ⅳ 社会主義国家の憲法 ◇(1) 社会主義国家の出現と展開 先に近代立憲主義とその変容としての現代立憲主義の展開をみてきたが、現代国家のもう一つのあり方を示すものとして社会主義国家の憲法体系が注目されてきた。 1917年の10月革命によって成立したソヴィエト政権は、翌年1月「勤労し搾取されている人民の権利の宣言」を発したが、それは「人間による人間のあらゆる搾取の廃止、階級への社会の分裂の完全な廃絶、搾取者に対する容赦ない抑圧、社会主義的な社会組織の確立、およびあらゆる国における社会主義の勝利」を謳うもので、その後の社会主義的人権保障体系の発展の基本的性格を規定するとともに、社会主義国家における統治構造のあり方をも規定する重要な意義をもつものであった。 同年、この権利宣言を第一編に収めてロシア社会主義連邦ソヴィエト共和国憲法が成立し、その後24年のソヴィエト社会主義共和国憲法を経て、36年にいわゆるスターリ憲法が制定され、ソ連邦は「労働者と農民の社会主義国家」であることを謳う(1条)とともに、「ソ連邦の政治的基礎は・・・・・・プロレタリアート独裁の獲得の結果として成長し堅固になった勤労者代議員ソヴィエトである」と規定した(2条)。 そして1977年の憲法は、ソ連邦を「成熟した社会主義的社会関係の存する社会」(前文)と規定し、18年、24年、36年の憲法の「思想と諸原則を継承し」た上で成立するところの、「労働者階級、農民、インテリゲンチア・・・・・・の意思と利益を表現する社会主義的全人民国家である」と定めた(1条)。 ソ連邦の影響の下に、第二次大戦後の社会政治的革命を通じて、東欧諸国などにおいて人民民主主義憲法が誕生した。 中国では、建国当初に臨時憲法の役割を果たした「中国人民政治協商会議共同綱領」(1949年)の後に、新民主主義から社会主義への過渡期型の1954年憲法、プロレタリア階級独裁下の継続革命思想を謳った「文革」型の1975年憲法、政策転換期型の1978年憲法、現代化推進に踏み切った 1982年憲法というように、四つの憲法の制定をみている。 ◇(2) 社会主義憲法の特徴 上述の現代立憲主義が近代立憲主義を修復補正しつつその延長線上に立とうとするのに対し、社会主義諸国の憲法はむしろ近代立憲主義の原理を否定し、全く新しい社会主義革命の原理を具現しようとする点で大きな特徴をもつ。 かかる目的のために社会主義諸国の憲法は、権力分立制を否定し、中央集権的な会議制的統治形態を採用した。 例えば、 1 77年のソヴィエト憲法は、ソヴィエト国家の組織と活動は「民主主義的中央集権制の原則」によるものとし(3条)、「ソ連邦の最高国家機関は、ソ連邦最高会議であ」って、「憲法によってソ連邦の権限に属するすべての問題を決定する権能をもつ」と規定した(108条1項・2項)。 2 また、82年の中華人民共和国憲法は、自らを「労働者階級の指導する、労農同盟を基礎とした人民民主主義独裁の社会主義国家である」と規定する(1条1項)(78年憲法では「プロレタリア階級独裁の社会主義国家」となっていた)とともに、「全国人民代表大会は、最高の国家権力機関である」と規定し(57条)、「中華人民共和国の国家機構は、民主集中制の原則を実行する」と定めている(3条1項)。 ◇(3) 社会主義国家の激変 社会主義国家は、右のような特徴をもつ憲法の下で、社会主義の理想を追求したが、いわゆる民主集中制は巨大化・硬直化する官僚制的支配を帰結し、その徹底した情報管理・情報統制と相俟って、社会のダイナミズムの欠如をもたらした。 世界的規模で進行する情報社会化の波に抗しきれず、また、社会経済的諸困難に直面して、社会主義国家は、あるいは瓦解しあるいは大きな変貌を余儀なくされた。 例えば、ソ連邦は解体し、1993年12月に公布、即日施行さえた「ロシア連邦憲法」は、「ロシアは、共和制統治形態の民主的な連邦法治国家である」(1条)と謳い、条文上は明確に立憲主義憲法の系譜に属するものとなっている。 これに対し、中華人民共和国は、1982年憲法の政治体制を維持しつつ、社会主義市場経済の発展を図ろうとしている(1993年の憲法改正により、「改革開放を堅持」することを序言の中に明文化している)。 ■2.第ニ節 憲法の意義・種別・特性・効力 ◆Ⅰ 憲法の意義 ◇(1) 実質憲法と形式憲法 既に述べたように、憲法は国家の根本法の意であるが、委細にいえば、憲法は様々な意味に用いられる。 まず、憲法の存在様式に関連して、形式的意味における憲法ないし形式憲法と実質的意味における憲法ないし実質憲法との別が生ずる。 前者の形式憲法とは、 軟性・硬性を問わず憲法典という特別の形式で存在する憲法 - その表題が、「ドイツ連邦共和国《基本法》」のように、「憲法」となっていなくとも、その内容が国家の主要な組織・作用規範を包括するものを含む - または通常の法律よりも高い形式的効力をもつ法規を指す。 これに対して実質憲法とは、 そのような成文形式で存在するか否かを問わず、およそ国家の構造・組織および作用の基本に関する規範一般を指す。 実質憲法は、およそ国家あるところすべてに存在する。 形式憲法の内容のすべてが必ずしも実質憲法とは限らず(その例として、1874年のスイス憲法典中のユダヤ的屠殺方法の禁止規定などが挙げられるが、その国の歴史的状況との関係で国家的ないし国民的重要性をもつものであるためかも知れない)、また、実質憲法がすべて形式憲法に取り込まれるとは限らない(明治憲法下の皇室典範がその例)。 ◇(2) 固有の意味の憲法と立憲的・近代的意味の憲法 上述のように、およそ国家は、その組織や構造の基本に関する法の存在を前提とするが、これを固有の意味での憲法ないし本来の意味での憲法という。 この固有の意味での憲法と先の実質憲法とは、結局同一の事柄を指しているのであるが、固有の意味での憲法は事柄の性質に着眼してのものであり、実質憲法は事柄の存在形式に着眼してのものであって、着眼点の違いによるものである。 この固有の意味での憲法に対して、とくに権力保持者による権力濫用を意識的に阻止し、権力名宛人の利益保護を終局の目的とする憲法を立憲的意味における憲法といい、この種の憲法の体系的展開が近代国家に至ってみられるようになったことから近代的意味における憲法と呼ばれることが多い(1789年のフランス人権宣言が「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもつものではない」と規定する例に象徴される憲法観である)。 上述のように、近代的意味における憲法は一般に形式憲法として登場し存在しているが、イギリスのような例外(そこでは、実質憲法は、慣習法や法律などの形で存在する)もある。 なお、実質憲法について、広狭二義を区別し、広義においては「国家の根本法」を、狭義においては「立憲政の国家に於ける国家の根本法のみ」を意味すると解する立場もある(美濃部達吉)。 ◇(3) 法規範としての憲法と事実状態としての憲法 憲法に相当する外国語の constitution, Verfassung には、構造とか組織とかあるいは体質とかいった意味が含まれており、実際、国家という政治的統一体の存在のあり様それ自体を指して使用される場合がある。 「事実上の権力関係」をもって「憲法」の本質とみるラッサールの所説、あるいは、「政治的統一と社会秩序の全体状態」の意味において「憲法」を捉え(「絶対的意味での憲法」)、また「憲法」(Verfassung)と「憲法律」(Verfassungsgesetz)とを区別し、前者の「憲法」をもって憲法制定権力による政治的統一体の形式と態様に関する根本的決断とし(「積極的意味での憲法」)、「憲法律」はかかる「憲法」を前提にして初めて妥当し規範性を発揮し得るとするシュミットの所説、などにその用例をみることが出来る。 これらの所説は、政治的激動期において主張されたものであり、憲法が「政治」と深い関わり合いをもつことを鋭く指摘したものといえる。 しかしながら、憲法の本質をそのようなものとしてのみ捉えることは、憲法が「政治」に呑み尽くされ、憲法学を「政治」の侍女たらしめる危険を内包している点は看過できない。 日本語としての「憲法」は、法規範《のみ》を示唆し、constitution を必ずしも正確に表現しているとは言い難いが(なおⅣ(1)(23頁)参照)、安易に事実と混同することがあってはならない(因みに、シュミットの「憲法」〔Verfassung〕は単純に事実状態の意ではない)。 ◇(4) 実定法的意味の憲法と法論理的意味の憲法 実定法的意味における憲法とは、およそ国家においてその組織・構造および作用の基本に関する規範であって、国法秩序の基礎をなすものを指すのに対し(これは上述の固有の意味における憲法に相当する)、そのような実定法的意味における憲法の効力根拠として想定される規範として法論理的意味における憲法がいわれることがある。 これは、純粋法学的思惟において、実定法的意味における憲法を効力あるものとして認識するために前提とされる始源的仮設規範である。 ◆Ⅱ 憲法の種別 ◇(1) 存在形式による種別 憲法は種々の視点から分類できるが、従来しばしば行われる分類方法の一つに、存在形式に着眼してのものがあり、かかる視点から成文憲法と不文憲法、成典憲法と不成典憲法とが種別される。 成文憲法とは 実質憲法が成文の形式をとって存在するものをいい、 不文憲法とは 実質憲法が慣習とか判例の形式で存在するものをいう。 イギリスでは、実質憲法は、上述のように一部は成文の議会制定法(権利章典、人身保護法、王位継承法、国会法など)の形式で存在している。 にも拘らずイギリスがしばしば不文憲法国と呼ばれるのは、イギリスの憲法がとくに憲法典という形式をとって存在していない点に着眼してのことで、その場合の不文憲法は不成典憲法の意味で用いられている。 このように、成文憲法といっても必ずしも一義的ではなく、狭義においては成典憲法を指すが、広義においては憲法典を含めてさらにそれより広く根本法の趣旨で特別に定立された制定法一般を指し(例えば、フランス第三共和制では三つの憲法的法律が存在した)、最広義においてはおよそ成文化された実質憲法を指す(イギリスでは、狭義および広義の成文憲法は存しないが、最広義の成文憲法は存在しているということになる)。 ◇(2) 改正手続による種別 制定された憲法典に他の成文法に優る権威を認め、通常の立法とは異なる特別の手続によるのでなければ変更できないとされるものを硬性憲法といい、 然らざる憲法は軟性憲法と呼ばれる(軟性憲法は、元来不文憲法も含めて観念される)。 軟性憲法は事態に柔軟に対応できる長所をもつ反面、憲法の「最高法規」性という観念は厳密な意味では生ずる余地はなく、通常の立法に対して規範性を発揮しにくい。 今日成典憲法主義が一般的になり、ほとんどが硬性憲法であるから、硬性か軟性かの区別は実はあまり意味はなく、むしろ「硬さ」が具体的にどのようなものであるか或いはどのようにすべきかに真の問題がるといえよう。 硬性憲法は憲法の安定性・永続性を企図してのものであるが、硬ければそれだけ憲法の安定性・永続性が保障されるというものでもない。 ◇(3) 制定権威の所在による種別 制定権威の所在如何により、欽定憲法、民定憲法、協約憲法の種別が生ずる。 欽定憲法とは、 君主主権原理に基づき、君主の権威を憲法制定の終局の根拠とする憲法のことで、1814年のフランス憲法(シャルト)や我が国の明治憲法などがその例である。 民定憲法とは、 国民主権原理に基づき、国民の権威を憲法制定の終局の根拠とする憲法のことで、1791年のフランス憲法や日本国憲法などがその例である。 協約憲法は、 君主主権と国民主権との妥協に基づき、君主と国民とが憲法制定の根拠となる権威を分有し、君主と国民の代表組織との合意を基礎に成立する憲法で、1830年のフランス憲法(シャルト)がその例とされる。 なお、以上のほか、二つ以上の国家の合意を基礎に成立する憲法のことを、条約憲法とか国約憲法と呼ぶことがあり、アメリカ合衆国憲法がその例とされる。 欽定憲法か民定憲法かという種別は、このように誰の権威を憲法制定の根拠とするかにある。 フランスの91年憲法は立憲君主制をとるものではあるが、国民主権に立脚して国民を制定権威としている点で民定憲法である。 また、日本億憲法は後述のように明治憲法所定の改正手続により成立したものではあるが、同じく国民主権原理に立って国民を制定権威としている点で民定憲法とみられる。 欽定憲法か民定憲法かという種別は、憲法成立の由来の区別に過ぎず、法的には特別の意味はないとの見方もあり得る。 しかし、欽定憲法の場合は、その制定権威者はそれ自体活動能力を有する存在である点で、民定憲法の場合とは違った法的帰結を導き得る点は看過されてはならない。 ◇(4) 規定内容による種別 憲法の規定内容は各種の観点から分類でき、例えば国家体制如何により単一国憲法と連邦憲法、君主制憲法と共和制憲法といった種別が可能であるし、歴史的観点から近代憲法と現代憲法、あるいは、その措定する社会・経済的構造の観点から資本主義憲法と社会主義憲法、といった種別を行なうことができる。 あるいはさらに、規定内容の全体がイデオロギー的・綱領的性格を強くもっている憲法(イデオロギー的・綱領的憲法)と実利主義的志向を強くもつ憲法(実利的憲法)とに種別することもできる。 ◇(5) 一種の存在論的な種別 これはレーヴェンシュタインの提唱にかかるもので、憲法規範に実際上の妥当性に着眼して、規範的憲法、名目的憲法および意味論的憲法が区別される。 規範的憲法とは、現に統治の規律として規範性を発揮している憲法をいい、名目的憲法とは、法的妥当性を欠いてはいないが、全体としてまたは少なくとも重要な部分について実際に規範性を発揮するに至っていない憲法をいい、意味論的憲法とは、政治権力保持者のためにその時点の権力状況を憲法的用語を用いて外観的に定式化したに過ぎないような憲法をいう。 この分類は、主観的価値判断の介入を避けられない点で問題を残すが、新しい分類の試みとして注目すべきものをもっている。 ◆Ⅲ 憲法の特性 ◇(1) 総説 既述のように憲法は国家の根本法であるが、ここに根本法とは、より詳しくいえば、憲法が国家のあり方を国家全体との関係において規律するところの究極的法規範であるという意味においてである。 国家のあり方について規律する法は憲法以外にも存在するが、憲法が根本法たるゆえんは、憲法が国家全体という根本的立場において規律している点にある。 そして、およそ法規範が妥当するためにはその法規範の定立をサンクション(※注釈:sanction には、 ①(権威筋からの正式な)許可・認可・是認・裁可・批准、②(法的な)制裁・処罰・賞罰、の二義があるが、ここでは①の意味)する法規範が先行することを前提とするが、憲法が根本法たるゆえんは、憲法が国法秩序の成立・展開をサンクションする究極の実定法規範であるという点にある。 ◇(2) 憲法の授権規範性 右のサンクションをより具体的にいえば、法規範Aが妥当するためには最小限それを定立する機関・権能および手続を定めた法規範Bの存在を前提とし、AはBのいわば授権に基づいて初めて妥当するということであって、憲法は国法秩序の中にあって最終的な授権規範としての性格をもつ(憲法の手続法的性格)。 その際授権が全く白紙委任的であれば、受権者はいかなる内容の法規範も定立できることになるが、一般に授権はある種の枠づけ(制限)を伴うから、授権規範は同時に制限規範としての性格をもつのが通例である。 換言すれば、制限規範性は、授権関係の内容面に関する関係ということができる。 近代的意味における憲法は、特に国民の権利・自由の保障ということを重要な構成要素とするから、その種の憲法は制限規範性を顕著にもつ授権規範ということができる(憲法の実体法的性格)。 なお、法的思惟を純粋に授権関係に局限する立場に立てば、憲法典も何らかの上位の法規範によって授権されたものと考えるべきではないかという帰結があり得る。 ケルゼンの「根本規範」はその種の発想にかかわる。 それは、既に触れたように(Ⅰ(4)(17頁)参照)、「実定法的意味における憲法」を効力あるものとして認識するために前提とされる始源的仮設規範であり、「法論理的意味における憲法」などと呼ばれるものである(もっとも、我が国では、実質的・価値的な内実を込めて、実定法レヴェルでの「根本規範」がいわれることがある)。 ◇(3) 憲法の最高法規性 手続と実体両面にわたる最終的授権規範としての憲法は、国法秩序の中で最も強い形式的効力をもつとき、それに相応しいより十全な姿を獲得する。 理論上も実際上も、憲法が、立法機関に対して通常の立法手続をもって憲法規範を改廃する権限を明示的に授権することがあり得るが(軟性憲法)、授権規範としての法規範性は希薄となる。 それに対して、憲法がそれ以外の国法形式による改廃の対象とはなり得ず、その改正には通常の立法手続と異なるとくに厳重な手続が要求され、憲法規範と矛盾する一切の国法の効力を認めないという強い形式的効力をもつとき、憲法は名実共に最終的授権規範に相応しい地位を獲得する。 憲法がかかる強い形式的効力をもつとき、その憲法は「最高法規」であるといわれる。 換言すれば、厳密には憲法の「最高法規」性は硬性の成文憲法の場合にのみ妥当し、逆に硬性の成文憲法であれば当然に「最高法規」である。 日本国憲法はとくに「最高法規」の章を設け、98条1項は「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」と規定しているが(*1)、特別の厳重な改正手続に関する96条が存する以上、98条1項は当然の帰結である。 なお、憲法の形式的効力とは別に憲法の根本法性(法のもつ根本的なる性質・内容)に着目して「最高法規」がいわれることがある。 ただ、憲法に最も強い形式的効力を認めるのは、国家の根本法性に鑑みてのことで、形式的効力面にかかわる「最高法規」性と性質・内容面にかかわる「最高法規」性との間には密接な関連がある。 日本国憲法の「最高法規」の章の冒頭に、基本的人権の本質に関する97条が置かれていることにつき、その位置を誤ったものと解する見解があるが、そのように解すべきではなく、むしろ、それは、日本国憲法の「最高法規」性の実質的根拠が何よりも人権の実現にあることを明確にしようとする趣旨であろうと解される。 もっとも、憲法が「最高法規」であるといっても、他の国法形式の憲法適合性を誰が認定するかの問題がある。 立法機関が立法を為すにあたって憲法適合性について判断する権能と義務を有すると解されるが、かつてはその判断をもって最終的とするのが一般的であった。 従って、憲法が「最高法規」であるといっても、他律的強制規範性の乏しいものであったといえる。 しかし、既にみたように、現代立憲主義は、立法権不信と人権保障の緊要性の自覚の下に、立法機関以外の第三者機関に最終的認定権を付与し、「最高法規」としての憲法の実効性を確保しようとするに至っている。 この第三者機関としては各種のものが想定され得るが、日本国憲法は裁判所をもってその機関としており(81条)、従って「最高法規」としての憲法典は原則として裁判規範であることになった。 なお、日本国憲法は、憲法の「最高法規」性に関連して、公務員に対して憲法尊重擁護義務を課しているが(99条)、この点については後述する(第三節Ⅳ(2)(45頁)参照)。 (*1)百里基地訴訟に関する東京高判昭和56年7月7日(判時1004号3頁)は、本条にいう「国務に関するその他の行為」には国が私人と対等の立場に立って行なった土地取得行為のごときを含まないとしつつ、行政庁が「専ら裁判を免れるため、・・・・・・私法行為の形式に逃避して、公権力を行使したのと同じ結果を実現したような場合」には公法行為とみなす可能性を認めている(なお、第三編第二章第二節Ⅱ(4)〔352頁〕参照)。 ◇(4) 憲法と国際法 以上は憲法の特性を専ら国法秩序内部の問題としてみた場合のもであって、国際法秩序を視野に入れるとまた違った様相を呈する可能性があるが、この点については後述する(Ⅳ(5)(29頁)参照)。 ◆Ⅳ 憲法の法源と効力 ◇(1) 憲法の法源 「法源」という語は種々の意味で用いられる。 法規範の妥当根拠の意味でいわれる場合(例えば、法の妥当根拠として神の意思だとか、国民の意思だとか、あるいは理性だとかいわれる場合)もあるが、通常は法規範の存在する形式の意味において用いられる。 後者の意味において「法源」をいう場合、憲法(実質憲法)は、成文憲法(成典憲法)国にあっては、主として制定法たる憲法典として存在する。 もっとも、憲法典は「法典」である以上、民法典や商法典などの場合と同様、網羅的体系性を備えるはずであるが、憲法典の場合には、一般にある差し迫った政治状況において、政治的妥協ないし決断の所産として各種の政治的配慮の下に成立することが関係して、網羅的で完璧な体系性・精密性を備えることは困難である。 当然に憲法事項と考えられるものが故意に規制対象から外されたり、意識的に含みの多い伸縮可能な形で規定されたりすることがしばしばあり、また、憲法改正に特別の手続が必要となることなどを考慮して、憲法に明記せずに後の解釈と運用に委ねるというようなこともよくみられるところである。 例えば、明治憲法では、君主国において元来重要な憲法事項たるはずの皇位継承などの問題は、その独特の「国体」観念に基づき、議会が関与すること(憲法典に規定されれば、その改正に議会の議決が必要)を嫌って、憲法典ではなく皇室典範で定められていたし、また、選挙に関する事項は選挙法に一任された。 ここに「法典」としての憲法典の特殊性が認められ、従って、成文憲法国にあっても、憲法(実質憲法)が憲法典以外の形式において存在することは否定され得ない。 例えば、憲法(実質憲法)が法律その他の制定法の形式において存在し、あるいは条約が国内法化されて憲法の法源となることもあり得る。 このような成文法源のほか、不文法源として、慣習法、判例、条理(あるいは学説)、習律というような形をとって存在することもあり得る。 一定の行為が長期にわたって反復持続され、そこに明確な規範意識が発生し、国家がその規範を強要するものと考えられるとき、そこに慣習法が成立し、それは「憲法的慣習法」とか「慣習憲法」とか呼ばれる。 しかし、実際上は法的規律とほとんど同じように遵守され、国家としても遵守することを待望するけれども、国家としてそれを強要するという程には至らず、それに違反することがあっても不法とはいわれないような類のものもあり、それは「憲法的習俗律」とか「憲法的習律」とか呼ばれる(第三節Ⅲ(41頁)参照)。 条理(あるいは学説)に法源性を認め得るかについては議論の存するところであるが、法典としての憲法典の特殊性からその意義は否定し難いと思われ、従来から憲法の法源として、「憲法的理性」を含めて「不文憲法」の意義が強調されてきたところである(例えば、美濃部達吉)。 判例についても法源性を認め得るかについて様々な議論が存するが、積極に解すべきものと思われる((4)(27頁)参照)。 このように憲法法源には各種のものがあるあ、硬性の憲法典の存する場合にはそれに抵触しない限りにおいてその存在が認められる。 かつて成文憲法よりも「不文憲法」とりわけ「憲法的理性」の優位性を正面から認める見解もあったが(少なくとも戦前の美濃部は、人間の習慣性の力ないし理性の力を徹底的に重視し、端的にそれに制定法改廃力を認めたし、あるいはフランスなどの学説の一部には、国民の絶えざる憲法制定権力の行使という考えの下に、慣習法に憲法典の改廃力を認めたものがある)、立憲主義の本来の趣旨からするならば、あくまでも憲法典を土台として、それを補充・発展させるものとしての「不文憲法」が考えられなければならない。 もっとも、憲法典の文言に真向から反するわけではないがその趣旨と異なる慣習について、「憲法的習律」としてならば認め得る余地がある(第三節Ⅲ(41頁)参照)。 なお、憲法判例は憲法典そのものではなく、制定法たる憲法典に準ずる効力しかもたないと解されるから、判例変更の可能性のある点は注意を要する(なお(4)(27頁)および第三編第二章第三節Ⅳ(378頁)参照)。 ◇(2) 憲法典の地位と機能 右において憲法典が必ずしも憲法(実質憲法)のすべてを網羅するものではなく、憲法の法源として限界を有することをみたが、本質面からみても、憲法典は実質憲法と完全な一体性を達成することが不可能であることが知られなければならない。 そのことは、一国において憲法典の消滅・交替にもかかわらず、その国家が国家としての同一性を失うことはなかったという例が少なくないという歴史的事実に徴し明らかであろう。 つまり、国家の滅失は直ちに憲法典の滅失を意味するが、憲法典の運命とは別に国家の運命があり得るのである。 そして、国家の統治活動の合法性を支える究極の正当性の根拠となる主権は、理論上憲法典によって定まるのではなく、むしろ憲法典を成立せしめ、それを支えるものである。 もっとも、近代立憲主義に立脚する成文憲法は、国家権力の行使を憲法典の規定するところに限定し、実質憲法を形式憲法に封じ込めようとするところに基本的狙いをもつ。 しかし立憲主義的方法では、憲法体制、ひいては国家の存立そのものを危くする文字通りの非常の事態においては、憲法典に規定がなくとも、何らかの非常措置がとられることが容認されざるを得ないのであって(この点については、第三節Ⅳ(3)(48頁)参照)、実質憲法と形式憲法の裂け目が顕現する。 既に示唆したように、憲法の特性は、憲法より下位の法規範の定立の権限と手順を定め、それを権威づけるところにある。 従って憲法典成立後は、その所定の手続による以外に法規範の成立する余地はない。 が、そのことは、ある憲法典の下で妥当する法規範のすべてがその憲法典所定の立法手続によって成立するものでなければならないということを直ちには意味しない。 実際に、明治憲法下で制定された民法典などは日本国憲法下でも妥当している。 もちろん、日本国憲法の実体規定に抵触するものは効力を有し得ず、民法典なども日本国憲法の施行に伴って手直しをうけ、また刑法典の尊属殺重罰規定のように後になって最高裁判所によって違憲無効とされるという例もあるが、これらの法典が日本国憲法所定の立法手続によって成立したものではないという事実は残る。 最高裁判所は、明治憲法下の法律は、その内容が日本国憲法の条規に反しない限り、なお法律としての効力を有するとし、そのことは日本国憲法98条の規定によってうかがわれるとする(最(大)判昭和23年6月23日刑集2巻7号722頁)。 が、憲法の特性を授権規範性に求めるとすれば、同条にそのような意味を読み込むことは、同条に加重負担を強いるものではなかろうか。 後にみるごとく、明治憲法と日本国憲法との間には主権の変動があり、その意味では「革命」があったとみなければならないが、その「革命」は国家の同一性にかかわるようなものではなく、しかも、そのことに加えて、国民の生活のあり方を大きく左右する私法秩序の独自性を基本的に認めている点で明治憲法と日本国憲法とで共通するものがあるのであって、民法典などの引き続いての妥当性の根拠はむしろそうした点に求められるべきであろう。 ◇(3) 憲法の前文の効力 憲法典には「前文」が付されているのが通例である。 「前文」の様式や内容には各種のものがあり(単に憲法制定の由来を説くにとどまるものもあれば、フランス第四共和制憲法のように権利章典に該当するものを規定しているものもある)、従ってその法的性質も一律に論じきれないところがあるが、大別して、法的規範性承認説と法的規範性否認説(前文は単に歴史的事実を陳述したにとどまるとか政治的・道徳的理想を表示したにとどまるとされる)とに分かれる。 日本国憲法の「前文」は「日本国憲法」という題名の後におかれ、憲法制定の由来・目的および憲法の基本原理・理想に関して述べるかなり詳細なものであるが、そのことから、「前文」は憲法典の一部を構成し(従って法規範性を有する)、その改変は憲法改正手続によらなければならないとする点では学説は概ね一致している(さらに、憲法典内部に形式的効力の違いを認める立場からは、憲法制定権力の所在を示し、基本的人権尊重主義など憲法の基本原理・理想を謳う「前文」は一般に憲法改正の限界をなすとされる)。 「前文」が法規範性を有する以上、それに抵触する下位規範の効力は理論上排除されることになるが(98条1項参照)、「前文」がさらに直接の裁判規範性をもつか否かについては肯定説と否定説とに分かれる。 否定説は、法規範の中には裁判規範性をもたないものがあるとの基本的前提に立って、「前文」の内容の抽象性・非具体性などを根拠とするが、肯定説もかなり有力で、下級審の判決例の中には肯定説によっているものがみられる(例、長沼訴訟第一審判決たる札幌地判昭和48年9月7日判時712号24頁)。 もっとも、否定説も、「前文」が憲法本文の各条項の解釈の基準となることを承認しており、判例もその趣旨のものと解され得る点は注意を要する(例、最(大)判昭和34年12月16日刑集13巻13号3225頁)。 ◇(4) 憲法判例 そもそも判例が法源性を有するか否かについては議論の存するところであるが、既に示唆したように、憲法判例を含めて積極に解さるべきであり(我が国の現行法上、憲法判例は、民事・刑事・行政の各具体的事件の解決に必要な限りにおいて為される、憲法典に関する解釈にかかわる判例として成立する)、最高裁判所の憲法判決は先例拘束性をもつと解される。 それは、日本国憲法の定める司法権がアメリカ流のものと解されるということの他に、基本的には同種の事件は同じように扱わなければならないという公正の観念によるものであり、日本国憲法の解釈論的にいえば、憲法14条の法の下の平等原則、32条の裁判をうける権利(ここでの裁判は当然に公正な裁判の意でなければならない)、および憲法31条の定める罪刑法定主義に根拠する。 但し、その場合、先例として拘束力をもつのは、憲法判決中の ratio decidendi の部分であって、法律などの合憲・違憲の結論それ自体ではなく、その結論に至る上で《直接》必要とされる憲法規範的理由づけである点が留意されるべきである。 憲法判例については、通常の判例と違った特殊性が考慮されなければならないが、その点については後述する(第三編第二章第三節Ⅵ(378頁)参照)。 この先例拘束性の原則の下に、最高裁判所は自らの憲法判例に拘束されるとともに、下級審は最高裁判所の憲法判例に拘束される(但し、最高裁判所の判例に下級審が従わないからといって、現行法上破棄される可能性があるにとどまる)。 もっとも、その場合、拘束力をもつのは判決中の抽象理論ではなくて ratio decidendi であること、そのことに関連して下級審は英米法にみられる“区別(distinction)”を通じて相当の創造性を発揮し得る余地をもつこと、最高裁判所の考え方に変化ないしその兆しがみられるときはその新傾向を先取りすることが正当化されることがあること、などの点が留意さるべきである。 なお、右のような理解に対しては、憲法の解釈論として、憲法76条3項に「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」とあることに注目し、さらに裁判所法4条に「上級審の裁判所の裁判における判断は、《その事件について》下級審の裁判所を拘束する」(傍点(※注釈:《》内)著者)とあること(その反対解釈として、上級裁判所の判例は下級裁判所に対して法的拘束力をもたないとみる)にも言及しながら、判例の法源性に否定的な見解が存する。 が、憲法76条3項にいう「憲法及び法律」には命令・規則・条例などの他慣習法など不文の法規範も含まれると解するのが一般的であり、またそう解すべきである。 裁判所法4条については、先例拘束性の問題と全く無関係とみることもできるし、あるいは、先例拘束性のあることを前提に、ただその事件との関係では下級裁判所を絶対的に拘束する趣旨を明らかにしたものと解することも出来ないではない。 このように、先例拘束性の原則を認めるには、憲法上および法律上の障害はないと解すべきであるが、我が国では、判例法主義の英米法系とは違って制定法主義の国であって、判決も《事実上の》拘束力をもつにとどまると解するのがむしろ一般的である。 けれども、判例法主義と制定法主義といった二分法がそもそも妥当なものか否か、制定法主義であるから先例拘束性は認められないとするのはあまりに図式的な結論ではないか、《事実上の》拘束力という観念は明確性を欠くところがないか、むしろ《事実上の》拘束力という観念の下に最高裁判所の示す抽象的な法理論が下級裁判所に対してかえって強い影響力を与えてきたという面はなかったか、といった疑問がある。 ところで、政治部門は、その権能行使にあたってその憲法適合性について判断する権限と義務をもつが、その際憲法判例にどのような態度をとるべきか。 結論的にいえば、国会は、その権能行使にあたってその憲法適合性について判断する際に、憲法判例を考慮すべきではあるが、それに法的に拘束されると考えるのは妥当ではなく、判例の示す憲法解釈は正確であろうとの推定を覆すに足る確信をもつ場合には、“訴訟において違憲とされるかも知れないが、自己の責任で”という立場で行動できると解される。 このように国会に対して法的拘束力はないと解される理由は、国権の最高機関にして国の唯一の立法機関である国会(41条)を核とする代表民主制とそこにおける最高裁判所が占めるべき地位・性格に求められる。 なお、特定の事件判決で違憲とされた法律自体にまつわる問題については後述する(第三編第二章第三節Ⅴ(373頁)参照)。 内閣は、「法律を誠実に執行」すべき立場にあるが(73条1号)、最高裁判所によって違憲とされた法律は一般的に執行できない状態に置かれると解される。 もっとも、国会が違憲とされた法律を何らかの理由で廃止するときは、そのことを期待して、テスト・ケースを提供すべく、当該法律を敢えて執行することは憲法上禁止されていると解することはおそらく妥当ではないであろう。 また、ある訴訟で違憲とされた法律とは別に国会が同種の法律を独自の判断と責任で新たに敢えて制定したような場合には、内閣は、その法律を執行すべき義務を負うことになると解すべきであろう。 ◇(5) 憲法と国際法 (イ) 国際法と国内法との関係 既にみたように、硬性憲法にあっては、「国の最高法規」として、「その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為」の効力を排除する(98条1項)という帰結が導かれる。 しかし、これは国内法秩序との関係において考察してのことであって、国際法秩序との関係を視野に入れた場合はどうなるか。 国際法と憲法以下の国内法との関係について、理論上、両者はその妥当根拠において全く次元を異にするところの別個の法秩序であるとみるか(二元論)(この関係は、ごく簡単には、「国際法は国内法を破らないし国内法も国際法を破らない」と表現される)、両者は一個の統一的法秩序を構成しているとみるか(一元論)、のいずれかが可能である。 そして後者の一元論の場合には、さらに、国際法をもって国内法を委任する上位秩序とみるか(国際法優位説)(この関係は、「国際法は国内法を破る」と表現される)、または逆に、国際法の妥当根拠を、国家がそれぞれの憲法に基づいてそれを承認するところに求め、l国際法をもっていわば国内法により委任された法秩序とみるか(国内法優位説)、のいずれかが可能である。 右の諸説のうち、国内法優位説は結局国際法を否定するに等しく(国際法は対外的国内法と化す)、そのことの故に今日ほとんど支持を失っているが、国際法優位説と二元論との争いは必ずしも決着がついていない。 国際法優位説によれば、国内法は国際法によって委任された秩序ということになり、純粋法学的思惟にあっては、憲法の効力根拠は始源的仮設規範ではなく、実定国際法の規範ということになり、さらにその実定国際法の妥当根拠としての始源的仮設規範が想定されなければならないということにある。 もっとも、国際法優位説は現実の国際法秩序の実証的分析抜きの規範論理的帰結であって、純理論的にはそれを是としつつも、現実の国際法秩序を前提に二元論に与する論者も少なくないようである。 二元論に徹すれば、国際法と国内法とは全く無関係の法秩序であって、国際法が国内法的効力を有するためには必ず国内法への「変形」が要求されるということになる。 しかし、実際のところ、両者の違いを過度に強調するのは問題があるようである。 国際法優位説の論者も、多くは、国際法は《究極的には》国内法を破るものと捉え、他方二元論者といえども、多くは、国家として“国際法違反”の国内法を放置しておくことは許されないと考えているからである。 (ロ) 憲法と国際法の国内法的効力 国際法がその実をあげるには、関係国内において実施に必要な措置が講じられなければならないが、その国際法がいかにして国内で妥当するかの問題は、各国の憲法体系に委ねられているのが現状である。 この点、国によっては国際法の国内実施のためいちいち立法措置(いわゆる「変型」)を必要とするところもあるが、憲法の明文または慣行により国際法をそのままの形で包括的に国内法化する国際法の一般的受容形式をとる傾向 - 一元論《的》傾向 - が顕著である。 日本国憲法の解釈論としては、立法措置を要しないとする明治憲法下の慣行を考慮し、かつ現憲法に至って国会による民主的コントロールが可能となったこと(73条3号参照)および国際法の誠実遵守の趣旨(98条2項)からみて、ことさらに立法措置が必要であるとみるべき根拠に乏しいと解される。 実際、自動執行的条約(self-executing treaty)は、特別の立法措置を講ずることなしにそのまま国内法的効力をもつものとして扱われてきている。 もっとも、自動執行的条約でない条約については、それを実施するために必要な国内法的措置は講じられなければならない。 このように国際的にみて一元論《的》傾向が顕著だとしても、何が自動執行的条約かについてそれぞれの国の独自の判断が働いたり、この種の条約以外の条約について立法措置を講ずることを怠ったり、条約の執行に必要な予算措置を講じなかったり、等々というようなこともなくはないようで、一元論《的》な考え方が純粋な形で実現されているわけでは必ずしもない。 (ハ) 国際法の国内法秩序における効力順位 国際法と国内法との効力の上下関係についても、各国の憲法体系に委ねられている。 合衆国では条約と法律とは同位とされ、ドイツでは「国際法の一般原則」については法律に優位するものとされているが、総じて法律より上位におく傾向があるようである。 この点、我が国では、条約の締結につき国会の承認を要するとされていることや98条2項ないしその精神を根拠に、国際法が法律に優位するということについてはほぼ異論はない。 しかし、憲法と国際法との効力関係については説が分かれ、98条2項の精神やさらに前文・9条などを根拠とする国際法優位説も有力である。 が、条約締結権は憲法に根拠を有し、締結および国会による承認は憲法の枠内においてのみ許容されること、憲法改正については厳重な手続が定められているにも拘わらず、国際法優位説によればその手続によらないで憲法改正が為されてしまう結果になってしまうこと、などを考慮すると、国際法優位説は多分に疑問である。 従って、憲法優位説が妥当と解され、判例も条約が違憲たり得ることを否定しない(最(大)判昭和34年12月16日刑集13巻13号3225頁)。 ただ、憲法優位説に立つ場合でも、国際法が《一般的に》違憲審査の対象となり、現実に無効とされ得るかは一応別個の問題である。 また、憲法優位があらゆる国際法について妥当するかも問題で、「確立された国際法規」(国際社会で一般に承認・実行されている慣習国際法)を成文化した条約や、あるいは領土や降伏などに関する条約は憲法に優位するとみるべきであろう(ポツダム宣言受諾・降伏文書調印は、明治憲法典の予定する主権国家体制さえ否認するものだから違憲であると主張されたことがあるが、明治憲法は戦争の可能性を否認せず、戦争には勝敗がつきものであって、国家として生き延びるために降伏し、ために憲法典の定める通りには行かなくなる可能性は否定され得ない)。 なお、憲法優位説によるとき、憲法違反とされた条約は国内的に執行不能となるが、国際法としては依然として妥当する。 従って、その場合には、憲法に適合するよう条約の改正に向けて努力するか、条約に適合するような憲法改正を試みるかする必要が生ずる。 それでは条約締結手続が憲法に違反する場合はどうか。 この点については、従来、国際法上不成立(無効)とみる説と成立する(有効)とみる説とに分かれていたが、「条約法に関するウィーン条約」によれば、条約締結権限に関する国内法違反が明白かつ基本的に重要な規定にかかわるものでない限り、条約無効を申し立てることは出来ないとされている。 ■3.第三節 憲法の変動と保障 ◆Ⅰ 憲法の変動 ◇(1) 憲法の性質 憲法は国家のあり方・運営の基本に関する規範であるが、同時にそれはその社会の政治的・社会経済的および文化的諸関係によって規定され、それら諸関係の反映でもある。 憲法は、その規範性を確保するため各種の方法を講ずるのが例である(憲法の保障)。 しかし、政治社会はそれ自体生物であって生物と同様不断の変化を免れず、憲法も一種の生きた有機的組織体ともいうべき性質をもつことは避けられない(広義の憲法変遷)。 このことは、憲法典についても基本的に妥当する。 憲法典は、一定時の政治的・社会経済的および文化的諸勢力間の妥協・調整による決断を基盤に、国政のあり方を、一定の理想・価値観の下に、将来に向かって枠づけ・固定しようとして制定される。 けれども、そのような諸勢力間の関係は時の経過とともに変化し、理想や価値観も変容して行くのが常である。 かかる変化・変容は、憲法典のあり方に不可避的に投射される。 ◇(2) 憲法変動の諸態様 右の変化・変容は、通常は憲法解釈の変化を通じて顕現するが、それが不可能な場合には憲法典の正文の形式的変更(憲法改正と呼ばれるもの)の必要が生ずる。 憲法は、その安定性・固定性を希求しつつも、このような場合を予想して、憲法改正の手続について規定しているのが通例である。 憲法改正はこのように憲法正文の意識的・形式的な変更であるが、そのほかに、憲法典の意識的・形式的変更を伴わない無意識的ないし発生的(オーガニック)な憲法変動たる憲法変遷(狭義の憲法変遷)が語られることがある。 なお、憲法によっては、憲法典を廃して新しい憲法典にとってかえることを認めたり(全部改正)、憲法典の特定条項の効力を一定期間排除することを認めることがある(憲法停止)。 右の憲法変動は、憲法自体が予定し、憲法所定の手続に従って行なわれるという意味で立憲的憲法変動と称し得るが、その他にも革命やクー・デターなどによって憲法変動が生ずることがある(シュミットは、憲法制定権力の所在の変更を伴う既存の憲法の排除を「憲法廃棄」と呼び、憲法制定権力を維持しつつ既存の憲法を排除することを「憲法排除」と呼んで両者を区別する)。 この種の変動は憲法がもとより予定し容認するところではないという意味で、非立憲的憲法変動と称することができる。 ◆Ⅱ 憲法の改正 ◇(1) 総説 憲法改正とは、憲法所定の手続に従い、憲法典中の個別条項につき、削除・修正・追加を行なうことにより、または、新たなる条項を加えて憲法典を増補することにより、意識的・形式的に憲法の変改を為すことをいう。 このように憲法改正は、憲法典の存続を前提としてその個々の条項に変改を加えることを意味し(部分改正)、もとの憲法典を廃して新しい憲法典にとってかえる行為を含まないのを原則とする。 後者の場合は新憲法の《制定》であって、通常法的連続性の断絶を意味する。 ただ、憲法の中には新しい憲法典にとってかえる行為をも改正として捉え、これを明記するものがある(1874年のスイスの憲法がその例で、「全部改正」と「部分改正」とが共に可能な旨明記し、その手続を別々に規定している。アメリカ合衆国憲法は、改正の一方法として憲法会議のことについて定めているが、レーヴェンシュタインによれば、間接的に「全部改正」の可能性について規定したものとされる)。 ◇(2) 改正の手続 (イ) 手続の諸類型 硬性憲法の改正手続としては、次のような諸類型が認められる。 a 議会のみで改正できるが、その特別多数決を要するとするもの(例、ドイツの憲法)、 b 憲法改正案成立後議会は解散され、新たに選挙された議会の特別多数決を要するとするもの(例、ベルギーの憲法)、 c 議会の決定と国民投票とを連結するもの(例、フランス第五共和制憲法)、 d 国民発案と国民投票だけによるもの(例、若干のアメリカ合衆国の州憲法)。 なお、連邦国家では、州の一定数の同意を要件とするのが例である(例、アメリカ合衆国憲法では、四分の三以上の州議会かまたは州憲法会議の承認を要件とする)。 (ロ) 日本国憲法の改正手続 (a) 総説 日本国憲法は、憲法改正につき、①「各議院の総議員の三分の二以上の賛成」による国会の「発議・提案」と、②「特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票」における国民の過半数の賛成による「承認」とを要求して、先の〈c〉型によることを明らかにし、最後に③天皇によって「国民の名で、この憲法と一体を成すものとして」直ちに「公布」されるものとしている(96条)。 (b) 国会の「発議・提案」 発議とは、国民に提案すべき改正案を決定することをいう。 つまり、ここにいう発議には、通常の意味における発議(例えば、国会法56条1項には「議員が議案を発議するには、・・・・・・」などとある)とは異なって、議決が含まれており、発議されるものの原案、すなわち憲法改正案を国会に提示することではなく、国民に提案すべき改正案を国会が決定することをいう。 この発議は、「各議院」の「総議員の三分の二以上の賛成」で為される。 ここに「各議院」とはもとより衆議院および参議院のことで、衆議院の優越は認められていない。 ここにいう「総議員」の意味については、各議院の議員の法定数とするもの(A説)、現在議員の総数とするもの(B説)、院内事項であって合理性を失わぬ限り各議院で定め得るとするもの(C説)、に分かれるが、おそらくB説をもって妥当としよう(もっとも、B説によらなければ違憲であると断じ去らなければならないというような厳格な趣旨においてではない)。 なお、憲法を改正するには、「特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票」において国民の過半数の賛成による「承認」を要求しているのに、その「発議・提案」について「各議院の総議員の三分の二以上の賛成」という要件を課すのは憲法改正手続として過重に過ぎないかの批判はあり得よう。 憲法には、発案県や審議の方法あるいは国民に対する提案の方法について明記するところがない。 まず、発案権については、各議院の議員が有することは明らかというべきであるが、内閣が有するか否かについては肯定説(Y説)と否定説(Z説)とに分かれる。 Z説には、内閣は法律および憲法の両者について発案権を有しないとするもの(Z1説)と、法律の発案権は認めつつも、憲法については、憲法改正は遥かに強度に国民の意思の発現であるべきで(国民投票が要求されているのはその現われ)、その発案権も国民に直結する国会議員に留保されていると解すべきであるとするもの(Z2説)、の二種がある。 憲法改正の場合と法律の場合とを単純に同一視するのは疑問で、Z2説は説得力をもつが、発議それ自体は両議院の議決による国会の意思の決定ということであって、発案権は国会議員に限るということを当然に意味するとは解されず、また、内閣に発案権を認めても国会の自主的審議権が必然的に害されるとはいえないと思われるので、国会の審議の素材を提供するというような意味合いで、法律によって内閣にも発案権を認めることは憲法上許されないわけではないと解される(内閣法5条は「内閣総理大臣は、内閣を代表して内閣提出の法律案、予算その他の議案を国会に提出し・・・・・・」と定め、特に憲法改正案を掲げていない。「議案」に含まれると解する余地もないではないが、憲法改正の特殊性を考慮する必要があろう。そうだとすれば、現行法上内閣に憲法改正の発案権を認める規定は存しないということになるが、国民投票など憲法改正手続の詳細について法律で定める際に内閣の発案権についても規定すべきものということになろう)。 なお、各議院の議員が憲法改正案の原案を提出する場合の要件については法律で具体的に定め得るという趣旨であろう(現行国会法によれば、通常の議案の場合と同じく、衆議院では20人、参議院では10人の賛成があれば足りるということになるのであろうが〔国会法56条1項参照〕、憲法改正の特殊性に鑑み、その要件を加重するということは考えられ得る)。 審議の方法については、憲法に特別の規定がない以上法律案の場合に準ずる趣旨と解されるが、定足数に関しては若干問題がある。 総議員の三分の二以上の出席がなければそもそも議決不能であることに鑑み、その定足数を三分の二と解するのが通説であるが、単なる審議段階の定足数については、一般の議事の場合と同様三分の一で足りるとする説(56条1項参照)と、議事の重大性を考慮して三分の二以上の出席が必要または望ましいとする説とに分かれている。 この点、憲法上一義的には決め難い。 明治憲法の例(73条2項参照)からいっても、三分の二以上という要件は不当に重きに失するとはいえないと思われ、三分の一以上とするか或いはそれより加重にするかは法律で具体的に定め得ると解すべきであろう。 最後に、国民に対する提案の方法についても、技術上の問題があるが、憲法は国会の議決するところに委ねる趣旨と解される。 (c) 国民の「承認」 憲法改正行為はこの承認によってはじめて成立するもので、国民主権の純粋な発現形態とみることができる。 国民投票は、「特別の国民投票」または「国会の定める選挙の際行はれる投票」のいずれかによって行なわれる。 今日に至るまでまだ国民投票の方法などについて定める法律は制定されていない(※注釈:佐藤幸治『憲法 第三版』は1995年刊であり、その後第一次安倍政権で2007年に国民投票法が成立済み)。 「特別の国民投票」があるのは、事柄の重大性に鑑みてのことで、最高裁判所裁判官の国民審査の場合と異なるところである。 承認の要件に関して述べられる「過半数」の意味について、有権者総数の過半数(A説)、投票者総数の過半数(B説)、有効投票総数の過半数(C説)の三説が理論上可能であるが、C説が有力である。 A説によれば、棄権するのも投票に行って否を投ずるのも全く一緒になって不合理であるが、投票者総数の過半数とするか有効投票総数の過半数とするかは国会が決定することができると解される。 (d) 天皇の「公布」 天皇が「国民の名で」公布するとは、憲法改正が主権の存する国民の意思によることを明らかにする趣旨である。 「この憲法と一体をなすものとして」とは、憲法改正が日本国憲法と同じ形式的効力を有する国法形式であるとして、という程の意味で、憲法改正の体裁の如何 - 全面改正、一部改正または増補 - はこの点に関係がない、と説かれることが多い。 が、改正規定は日本国憲法という一体としての憲法典の中に組み入れられ、変更関係を明らかにする趣旨に解せられ、そのことと関係して「全部改正」は日本国憲法として予想していないとみられる。 ◇(3) 憲法改正行為の性質と限界 (イ) 改正権の本質 憲法改正権の本質については、 ① 理論上、通常の立法権と同質とみるか(A説)、 ② 憲法制定権力と同質とみるか(B説)、 ③ 通常の立法権とも憲法制定権力とも異なる第三の範疇のものとみるか(C説)、 のいずれかが可能である。 硬性憲法の特性を上述のように理解した場合、A説は妥当でないと解される。 C説は、 ① 憲法制定権力論に立って、憲法改正権は、全能である憲法制定権力による根本的決断たる「憲法」(「積極的意味での憲法」)を前提にそれによって組織化された法的権限に過ぎないとし(C1説)、或いは、 ② 憲法制定権力論を一種の神学として斥けつつ、通常の立法権と異なる、新憲法条項の創設を授権された特殊な権能であるとする(C2説)。 君主主権か国民主権かという意味において主権の「主体」性を問題とせざるを得ない限り、C2説は妥当でないと解される。 しかし他方、C1説については、次のような疑問があり得る。 1 日本国憲法のように憲法改正手続に国民が参加する場合、憲法制定権力の担い手である国民と憲法改正権者である国民とはそれ程異質な存在なのか。 2 憲法制定権力は一度行使されると以後合法的行使の可能性がないことになり、結局国民主権性を否認することにならないか。 3 あるいは、憲法制定権力と改正権との間には確かに時間的に前後、論理的に上下の関係があるといえるかも知れないが、憲法規範の創設という点では両者は共通するのではないか。 その意味ではB説に落ち着かざるを得ないことになるが、しかしその場合、 ① 改正権をもって制定権力と全く同一とみる(B1説)べきではなく(この見解は結局憲法改正規定の法としての性格を否定することになる)、 ② 改正規定は制定権力の以後の行為方法を定める法規範であり、改正権はいわば制度化された憲法制定権力と解すべきである(B2説)。 (ロ) 改正の限界 (a) 従来憲法改正における限界の有無をめぐって、肯定説(Y説)と否定説(Z説)との対立があり、種々議論されてきた。 肯定説の主張内容および根拠は多様であるが、大別して、 ① 憲法制定権力と改正権とを峻別し、改正権は自己の根拠となるところの、憲法制定権力の根本的決断としての「憲法」を変改する法的能力を持ち得ぬとするもの(Y1説)と、 ② 一種の自然法の存在を是認してそれにかかわる規定の改正は不可とするもの(Y2説)と に分かれる。 否定説も、大別して、 ① 改正権と憲法制定権力とを同一視しかつ制定権力の全能性を根拠とするもの(Z1説)、 ② 憲法典中の規定はすべて同一の形式的効力を有しており、憲法が改正を認める以上、改正可能なものと不可能なものとの区別はあり得ないとするもの(Z2説)、 ③ 法は元来人間の社会生活に奉仕する手段であり、かつ社会は変転してやまないものであるから、法もそれにつれて変わるべきものであって、憲法改正に限界ありとするのは法の本質に反するとするもの(Z3説)、 に分かれる。 (b) 右の諸説については、改正権の本質を上述のようにB2説的に解した場合、まずY1説とZ1説は妥当でないということになる。 Y2説については、かかる自然法規範にかかわる規定と然らざる規定とを区別することは容易であるか否か、仮にかかる自然法規範にかかわるか否かによって憲法の各条章につきその価値・重要度において段階づけが可能だとしても、そのことから直ちに憲法の各条章の形式的効力面における違いを帰結できるのか否か、の疑問があり得る。 Y2説の徹底した考え方は、憲法制定権力をも拘束する自然法規範の存在を主張するが(この立場に立てば、憲法制定権力と改正権とを区別することは殆ど意味をなさないことになろう)、一体そのような自然法規範の内容を誰がどのような方法と手続で認識するのか、その認識の正しさは如何にして確定可能なのか、の問題を残している。 それではZ2説ないしZ3説が妥当かということになるかも知れないが、むしろ次のように考えるべきである。 (c) まず、理論上、改正手続を根拠に、憲法典を支える最終的権威である憲法制定権力の担い手の変更はあり得ないと解される。 その変更は、憲法の法的連続性の切断を意味する。 明治憲法から日本国憲法への変動は、まさにそのようなものであったといえる。 第二に、憲法の改正は、もとの憲法典の存続を前提としてのことであって、従って憲法典自体にとくに全部改正を認める規定がない限り(但し、その場合でも憲法制定権力の所在の変動などは不可能と解される)、新しい憲法典にとってかえるとか、もとの憲法典との同一性を失わせるようなものは、法的な改正行為としては不可能と解される。 改正禁止規定については、 ① 改正禁止の対象たる特定の条項はもとより改正禁止規定自体も改正できない(A説)、 ② 改正禁止規定を改正して後その特定の条項を改正することは可能である(B説)、 ③ 改正禁止規定は法的に無意味である(C説)、 の各説があり得るが、改正禁止規定は改正の実体面に関する制限規範であって、改正手続規定の場合と同様その憲法の立場からは改正対象となり得ないと考えるべきで、A説をもって妥当としよう。 (d) 右の「限界」を越えた行為は改正ではなく、もとの憲法典の立場からは無効ということになるが、新憲法の制定として完全な効力をもって実施されるということは十分あり得る。 そして、改正の「限界」内にとどまるものか否かの判定権が改正権者自身の手にあるとされる限り、理論上新憲法の制定とみざるを得ないものが改正の名において行なわれることはあり得る。 ◆Ⅲ 憲法の変遷 ◇(1) 憲法変遷の意味 イエリネックは、「事実は法を破壊し、法を創造する」点に注目し、「事実の規範力」論を説き、その延長線上に憲法変遷論を展開した。 我が国でも、この所説の影響の下に、憲法の変遷がいわれるようになった。 もっとも、憲法の変遷(狭義のそれ)の概念規定は論者によって必ずしも一定しない。 ① 憲法の条文はそのままにその意味内容が改正されたと同じ程実質的に変化することであるとか、 ② 憲法の文言はそのままにその客観的意味が変化することであるとか、あるいは、 ③ 憲法条項に違反・矛盾する憲法実例が長期にわたり繰り返され、国民一般の意識によって支えられるなどして憲法規範性を獲得し、当該憲法条項が改廃された結果になることである、 とかいわれる。 そして、憲法変遷を法理論的にどう受けとめるかについて、 ① これを慣習法として憲法法源性を承認しようとするもの(A説)、 ② かかる現象は事実上のものに過ぎず法的には無意味であるとするもの(B説)、あるいは ③ 端的に憲法規範性を認めるわけには行かないが、だからといって単なる事実上のものとするのも問題で、法の前段階たる習律とみるべきであるとするもの(C説)、 などに分かれる。 C説は折衷説的であるが、厳密にはB説の系譜に属するものといえよう。 ◇(2) 評価 (イ) まず、成文憲法規範と実際の憲法状態との間に各種各様のずれが生ずる可能性は、一般に否定されない。 問題は、かかるずれを憲法解釈論上どう受けとめるかにある(これはしばしば「法解釈学的意義の変遷」と呼ばれ、前者の客観的事実認識のレヴェルでの「法社会学的意義の変遷」と区別される)。 先の憲法変遷肯定論(A説)と否定論(B、C説)の対立は、このレヴェルでのものである。 (ロ) その場合、憲法変遷の概念規定を明確にしておくことが重要である。 憲法変遷の概念規定として、上述のようにしばしば「憲法条項に違反・矛盾する」憲法実例とか「憲法条項の改廃」という用語が使用されるが、字義通り憲法条項に違反・矛盾する行為(例えば、憲法明文上間接選挙制になっているのに直接選挙制を採用したり、或いはその逆のこと)ないし憲法条項の改廃は、硬性憲法下の立憲的憲法変動としてはあくまで憲法所定の改正手続を通じて達成さるべきで、憲法条項に違反・矛盾する実例が当該憲法条項に代わって憲法規範性を獲得することを認め得る余地はないことが確認されなければならない。 右のような意味での憲法変遷を、国民の絶えざる憲法制定権力の行使という観点から肯定する論もあるが、上述のように(先のⅡ(3)(38頁)参照)、憲法制定権力は憲法典定立後は(ごく例外的な場合を除いて)いわば法制度化された制定権力たる改正権としてのみ活動するとみる立場からは、憲法制定権力の絶えざる行使という考え方をとる余地はない(仮に憲法制定権力の絶えざる行使という観念をとるとしても、それは政治部門による憲法実例には妥当し得ても、裁判所によるそれには妥当しにくいことになろう)。 従って、憲法変遷を語ることが許されるとすれば、それは、あくまでも「憲法に違反するものではない」との前提の下での、憲法条項の客観的意味変化の意でなければならない。 憲法に対するアプローチとして、 ① 一定時(とくに憲法制定時)における成文憲法規定の意味理解を基軸にかつ固定的に捉えるもの(Y説)と、 ② 憲法解釈学上そのように固定的に捉えることに反対し、憲法規定の意味的変化の可能性を容認するもの(Z説)と に大別できる。 Y説によった場合、その一定時の意味理解からの離脱に対して法上否定的評価になるのが自然で、憲法変遷否定論には結局この種の主張と解されるものも見受けられる。 確かに憲法解釈にあたって憲法起草者の意図(制憲意思)は重要視さるべきであるが、その確認は必ずしも容易ではなく、また歴史学の進展に伴って変わり得るものである点は注意さるべきであるし、制憲意思の確認が絶対的であるとすれば、憲法解釈学は歴史学と化そう。 憲法規定の明文に反せず、憲法全体の理念・論理構造を破棄しない範囲内において、時代の知識・必要物・経験などを加味しつつ憲法規定を解釈する必要のあることは否定し得ず、かかる解釈が国民の一般的な憲法規範意識によって裏打ちされて、憲法規定の客観的意味内容が変化することのあることは承認されなければならない。 アメリカ合衆国憲法の州際通商条項やデュー・プロセス条項などの軌跡に、その典型例をみることができる。 ただ、それはなお憲法解釈の変化という形をとっているのであり、端的に憲法の正文に反するが憲法規範としての地位を獲得するに至ったという性質のものではない。 或いはまた、アメリカの大統領選挙制のように、起草者の特別の意図の下に採用された間接選挙制が、意識的な解釈行為によってというよりは、生きた政治の過程で自ずと形骸化し、その実質において国民の直接選挙制に変化してしまったものもある(しかし、間接選挙制の形式はあくまでも維持されていることに注意)。 ある機関が《法的には》ある行為を為すことが可能でありながら、実際には行使しないという習律が成立して、実際に行使すれば constitution 違反と非難されるというようなこともあり得る。 つまり、憲法の正文(憲法規範)はそのままに、それとは異なるプラクティスがいわば発生的に生じ、一国の constitution の重要な構成要素となる場合があるということである。 ただ、この場合も、いわゆる「憲法的習律」としての地位をもつにとどまり、法規範としての憲法正文にとって代わったというような性質のものではない。 一時的な単なる解釈の変化とは異なるところの、かかる憲法規定の客観的・実質的な意味変化、あるいは発生的な妥当性の変化を、立憲的憲法変動の一局面を解明する概念として、憲法変遷と呼ぶことが許されよう。 (ハ) 右のアメリカの大統領選挙制のように特別の国家機関の行為なしに憲法変遷の生ずる場合もあるが、一般には憲法の有権的解釈権者の行為が大きな契機となる。 立法者が憲法適合性についての最終的認定権をもつ場合には立法行為が決定的意味をもつが、例えば裁判所に違憲審査権が認められている場合には当該機関の認定行為が重要な意味をもつ(もちろん全ての立法が審査にかけられるとは限らないし、また統治行為などの問題のあることに注意)。 もちろんかかる国家機関の憲法解釈が不当な場合が想定され得るが、最終的認定権者の行為である以上単なる事実とはいえず、憲法はそのことを予定していると考えられるべきであり(この関係は、規範学的に、「裏からの授権」とか「規範簒奪」などの用語で表現されることがある)、それだけに、かかる認定行為を契機に不当な憲法変遷の招来されることを阻止しまたは既に憲法変遷g生じてしまった場合には正しい姿に回復せしめるために、国民の間における国政批判の自由が大事である。 そして、憲法の保障する自由も、かかる文脈において把握される必要がある。 ◆Ⅳ 憲法の保障(合憲性の統制) ◇(1) 憲法の保障の意義と諸方法 (イ) 意義 ここに憲法の保障ないし合憲性の統制とは、最高法規である憲法の規範内容が、下位の法形式や措置を通じて端的に踏みにじられまたは不当に変質せしめられないように統制しようとする国法上の諸々の工夫を指す。 立憲主義憲法は元来かかる憲法の保障の意義の自覚の下に形成されているもので、実際、1788年のアメリカ合衆国憲法のように明文で大統領などに憲法擁護の宣誓義務を課す例や、1818年のバイエルン憲法のように「憲法の保障」の下に国王・摂政などの憲法忠誠の宣誓や高級官吏の弾劾訴訟あるいは憲法改正手続などを定める例もみられたが(憲法典も制定法の一つとして改正が不可避であるとすれば、それに要求される特別の手続は「憲法の保障」の意義をもち得る)、憲法の保障の問題が複雑化しかつ緊要の課題となったのは現代国家においてであることは既に垣間見たところである(第一節Ⅲ(7頁))。 (ロ) 諸方法 憲法の保障の方法は多様であり、各様の観点から分類できる。 まず、平常時におけるものか否かにより、正規的憲法保障と非常手段的憲法保障の別が生ずる。 非常手段的憲法保障としては、抵抗権と国家緊急権が問題となるが、この点については後述する。 非常手段的憲法保障が問題となるのは、憲法の危機状況においてであって、憲法保障の本来の意味はむしろ如何にしてかかる状況に陥るのを回避するかにある。 この正規的憲法保障については、 ① 制度上憲法保障を直接の狙いとしているか否かにより、直接的保障と間接的保障の別が、 ② 憲法侵犯を事前に防止することを狙いとするか否かにより、予防的保障と事後的(匡正的)保障の別が、 ③ 保障形式が拘束力をもつものか否かにより、拘束的保障と諮問的保障の別が、あるいは、 ④ 保障機能の担い手が誰かにより、政治部門による保障、裁判所による保障、国民による保障の別が、 それぞれ可能である。 権力分立や抑制・均衡のシステムは、間接的保障にして予防的保障ということができる。 予防的保障のその他の例としては、公務員の憲法尊重擁護義務の宣言とか厳格な憲法改正規定をあげることができる。 諮問的保障の例としては、カナダなどでみられるところの、裁判所の行なう勧告的意見の制度がある。 違憲立法審査制は、もとより直接的保障にして拘束的保障、また一般に事後的保障である。 違憲立法審査制は一般に裁判所型であるが(これはさらに司法裁判所型と憲法裁判所型とに分かれる)、フランスの憲法院のように政治機関型もみられた(憲法院が裁判所型に変容しつつあることについては、第一節Ⅲ(5)〔10頁〕参照)。 日本国憲法は、権力分立制下の国政運営を前提に、憲法の最高法規性(98条)を確保するため裁判所型の違憲立法審査制を採用した(81条)。 その委細についてはそれぞれ関係の個所で論及することになるので、ここでは日本国憲法尊重擁護の責任と義務について一般的に触れるにとどめる。 ◇(2) 憲法尊重擁護の責任と義務 (イ) 公務員の憲法尊重擁護義務 日本国憲法は、「最高法規」の章で、天皇、摂政、国務大臣(ここにいう「国務大臣」には、解釈上内閣総理大臣も含まれる)、国会議員、裁判官その他の公務員の憲法尊重擁護義務を明記している(99条)。 本条は、これら公務員が国政の運営にあたり、憲法の運用に直接または間接に関与する立場にあることに鑑み、その憲法尊重擁護義務をとくに明記したもので、かかる例は、上述のアメリカ合衆国憲法など多くの憲法でみられるところである。 本条の定める憲法尊重擁護義務は、一般に、「法律的義務というよりはむしろ道徳的要請を規定したもの」(東京地判昭和33年7月31日行集9巻7号1515頁。また、百里基地訴訟に関する東京高判昭和56年7月7日判時1004号3頁)と解されている(*1)。 ただ、憲法を尊重・擁護するという積極的作為義務違反は場合によっては政治的責任追及の対象となり得るにとどまるが、憲法の侵犯・破壊を行なわないという消極的不作為義務違反については法律による制裁の対象となることがあり得る点は注意を要する。 例えば、公務員の懲戒事由や裁判官の弾劾事由とされる「職務上の義務違反」(国家公務員法82条、裁判官弾劾法2条)の中には、憲法の侵犯・破壊行為も含まれ得る。 なお、国家公務員法97条およびそれに基づく政令は、憲法99条を受けて、憲法遵守の宣誓を要求しており(「職員の服務の宣誓に関する政令」によれば、その「宣誓書」の様式は、「私は、国民全体の奉仕者として公共の利益のために勤務すべき責務を深く自覚し、日本国憲法を遵守し、並びに法令及び上司の職務上の命令に従い、不偏不党かつ公正に職務の遂行に当たることをかたく誓います」とされている)、公務員が宣誓を拒否すれば、職務上の義務違反として懲戒事由となり得る(国家公務員法82条2号参照)。 また、国家公務員法38条は、職員の欠格事由として、「日本国憲法施行の日以後において、日本国憲法又はその下に成立した政府を暴力で破壊することを主張する政党その他の団体を結成し、又はこれに加入した者」(同条5号)をあげている。 公務員の具体的な表現活動に関し、憲法99条と表現の自由の保障に関する憲法21条とを如何に調和させるかという難しい問題がある(公務員の職種、職務権限、表現の内容・態様等々を総合しながら、個別具体的に検討する必要がある)。 なお、天皇、摂政、国務大臣、国会議員などについては、弾劾制度が存しない以上、本条を根拠に政治的責任追及を為し得るにとどまる(なお、天皇・摂政については、天皇無答責の原則から、内閣がその責任を負う)。 これまで、例えば、鈴木内閣当時の奥野法務大臣の「自主憲法論」のように、国務大臣の憲法に関する発言が本条との関係で時折問題となった。 憲法が改正手続について定めている以上、閣僚が政治家として改正に関する主張を為し得るのは当然であるが、改正されるまで憲法に誠実に従って行動する義務があり、さらに、憲法およびその下における法令に従って行なわれるべきその職務の公正性に対する信頼性を損なうような言動がるとすれば、本条の義務に反する可能性があろう。 その意味で、閣僚の憲法改正に関する発言には、国会議員の場合と違った慎重さが求められるということになろう。 (ロ) 国民の憲法尊重擁護の責任 日本国憲法は、憲法の保障する国民の自由および権利につき、国民が「不断の努力によつて」保持すべきことを呼びかけている(12条)。 憲法の保障の各種制度はそれぞれ固有の問題と限界を有しているのであって、国民主権下において、憲法制定権力の担い手である国民こそが憲法の保障の最終的責任の担い手である。 憲法12条はこの事理を表現するものといえる。 ただ、上述の憲法99条中には国民が含まれていないことには注意を要する。 あるいはこの点むしろ、憲法制定権力の担い手である国民が憲法を尊重擁護すべき立場にあるのは当然のことで、99条はその当然の前提に立つと解するのが一般的であるといえよう。 実際、外国の憲法の中には、国民の憲法遵守義務を明示するものも少なくない(例、イタリアの憲法54条、旧ソ連憲法59条)。 が、日本国憲法12条が「国民の不断の努力」による自由・権利の保持を強く呼びかけながら、憲法全般の尊重擁護に関する99条において国民を含めなかったことにはそれなりの理由があると解すべきである(*2)。 つまり、日本国憲法は、国民が憲法の最終的擁護者であることを自覚しつつも、徹底した自由主義・相対主義の立場に立ち(もっとも、憲法の定立自体は単なる相対主義ではない)、憲法に対する忠誠の要求の名の下に国民の自由が侵害されることを恐れた結果であると解されるのである。 従って、憲法的秩序に反するというだけで団体および政党を禁止するドイツの憲法のような行き方は、日本国憲法に馴染むものではないと解される。 (*1)(*2) 右に触れた百里基地訴訟控訴審判決は、国が土地を取得するにお際しその衝にあたった防衛庁東京建設部長Aは国家公務員として、また、国に土地を売渡したBは主権者たる国民の一人として、いずれも憲法を尊重擁護すべき義務を負うものであるのに、敢えて憲法9条に違反する基地設置を目的とする行為に及んだもので、かかる行為は憲法99条に違反してその効力を生ずるに由ないものであるという主張につき、憲法99条の憲法尊重義務の規定は、「憲法の運用に極めて密接な関係にある者に対し、憲法を尊重し擁護すべき旨を宣明したにすぎないものであって、〔B〕のごとく国政を担当する公務員以外の一般国民に対し、かかる義務を課したものではな」く、また、「本条の定める公務員の義務は、いわば、倫理的な性格のものであって、この義務に違反したからといって、直ちに本条により法的制裁が加えられたり、当該公務員のした個々の行為が無効になるわけのものではな」い、と判示している。 ◇(3) 非常手段的憲法保障 (イ) 総説 上述のように、憲法の保障の各種方法・手段は、一般に、ノーマルな平和状態において作動すべく設計されているものであるから、外国からの侵入や内乱、大規模な自然災害などによって、あるいは政府の著しい権力濫用によって、国家および憲法秩序が重大な危機に曝されるとき、憲法秩序を回復するために、正規的憲法保障方法とは異なる非常手段的憲法保障方法に訴えざるを得なくなるのではないかの問題が生ずる。 国家緊急権と抵抗権がこの問題にかかわる。 (ロ) 国家緊急権をめぐる問題 (a) 意義 ここに国家緊急権とは、戦争、内乱その他の原因により、平常時の統治機構と作用をもっては対応し得ない緊急事態において、国家の存立と憲法秩序の回復を図るためにとられる非常措置権のことをいう。 立憲主義国家にあっては、立憲主義体制を一時停止して多かれ少なかれ権力集中を伴うのを通例とする。 緊急権は、前提となる事態の緊急性の程度やそれに応じてとられる措置の種類に従って類型化することができる。 よく行われるのは、 ① 憲法上一定条件の下で立憲主義を一時的に停止して独裁的な権力の行使が認められる「憲法制度上の国家緊急権」と、 ② 憲法の授権や枠を越えて独裁的な権力が行使される「憲法を踏み越える国家緊急権」 の区別である。 ①の例としては、ワイマール憲法下の大統領の独裁権や英米のコモン・ロー上または議会制定法上のマーシャル・ルール(*3)などがあげられる。 ②は「必要は法を知らず」を地で行くもので、もはや法の世界に属する事柄ではないといえるが、ここにこそ国家緊急権の本質があるともいえる。 そして①と②との区別は相対的であることが注意されなければならない。 つまり、非常措置権を憲法的に厳格に枠づけようとすれば、②の可能性が大きくなり、②の可能性を嫌って非常措置権を包括的・抽象的に定めれば、非常措置権に対する憲法的統制の実が失われ、緊急権の濫用の危険が増大する。 国家緊急権のパラドックスは、立憲主義を守るために立憲主義を破るということであり、その実定法化には右のようなディレンマがつきまとう。 従来緊急状態に直面しつつも曲りなりに立憲主義体制を維持し得てきた国においては、国家緊急権はあうまでも立憲主義体制を維持し、国民の自由と権利を守るためのものであるという目的の明確性、従ってとられる非常措置の種類と程度は当該緊急事態に対処するための一時的かつ必要最小限のものでなければならないという自覚、従ってまた緊急権濫用を阻止するため可及的対策を講じ、事後において議会や裁判所などの立憲制度上の正規の機関を通じて緊急権行使の適正さを厳しく審査し、責任を追及する途を開いておくことの不可欠性についての認識が、国民の間に相当程度浸透している結果であったといえる。 (*3) こうしたコモン・ロー上または制定法上のマーシャル・ルールはマーシャル・ロー(martial law or law martial)と呼ばれ、外国による侵入や内乱などに際し、通常政府とくに裁判所が機能し得なくなった場合において、通常法を停止して、統治作用は軍の下に置かれることになる。合衆国憲法2条2節1項は「大統領は、合衆国の陸海軍および現に召集され合衆国の軍務に服している各州の民兵の総指揮官(Commander in Chief)である」と定めているが、大統領は軍の総指揮官として統治することになる。 (b) 国家緊急権と日本国憲法 日本国憲法は、戒厳大権や非常大権などを定める明治憲法(14条・31条など)と違って、緊急権について定めるところがない(憲法54条は参議院の緊急集会について定めているが、固有の意味の緊急権規定といえるかどうかは疑わしい)。 その背景には、総司令部のアメリカ的発想、明治憲法やワイマール憲法下での緊急権の濫用に対する反省、あるいは憲法前文・9条にみられる徹底した平和主義・国際協調主義の姿勢等々が作用していたのかも知れない。 日本国憲法の緊急権についてのこの沈黙の法的意味について、 ① 不文の国家緊急権を排するものではないとする説(A説)と ② 排するとする説(B説) とがあり、さらにB説は、 1 そのことを積極的に評価する説(B1説)と、 2 そのことを消極に解し、憲法上緊急権の存在・行使の条件などを明記する必要があるとする説(B2説) とに分かれている。 憲法典上の規定の有無おみで緊急権の問題を割り切れるかどうかは問題であろう。 憲法典中に規定をおくと濫用される危険があることは否めず、それを規定しないことは一つの見識であるが、放置すれば憲法典の実効性ないしその生命そのものが失われる緊急事態に不幸にして陥った場合、その救済を図るため非常措置を講ずることは不文の法理として肯定せざるを得ないのではないか。 そしてその場合、かかる非常措置は、日本国憲法の立場にあっては、単に「国家の存立」のためということではなく、個人の自由と権利の保障を核とする憲法秩序の維持ないし回復を図るためのものでなければならない(目的の明確性の原則)。 そのことに関連して、右に触れたように、非常措置の一時的かつ必要最小限度性の原則、濫用阻止のための責任性の原則が貫徹されなければならない。 現在、内閣総理大臣に緊急事態の布告を発する権限を認める警察法(*4)(71条)、内閣総理大臣に防衛出動・治安出動命令を発する権限を認める自衛隊法(76条・78条・81条)が存するが、国家緊急権との関連でどう解するかの問題をはらんでいる(*5)。 (*4) かかる非常措置のほか、災害対策基本法8章は、「非常災害が発生し、かつ、当該災害が国の経済及び公共の福祉に重大な影響を及ぼすべき異常かつ激甚なものである場合において、当該災害に係る災害応急対策を推進するための特別の必要があると認めるとき」は、内閣総理大臣は閣議にかけて災害緊急事態の布告を発することが出来、臨時に総理府に緊急対策本部を設置することができるものとしている。 (*5) 緊急事態の布告を発した場合、布告を発した日から20日以内に国会に付議してその承認を求めるべきこと要求し(警察法74条、災害対策基本法106条)、また、防衛出動に際して国会の承認を要求し(自衛隊法76条)、命令による治安出動に関して、出動を命じた日から20日以内に国会に付議してその承認を求めなければならないとしている(同法78条)。ここに見られる国会の承認権は絶対不可欠のものというべきであり、国会が「国権の最高機関」たるゆえんのものである。 (ハ) 抵抗権 (a) 意義 立憲主義憲法の保障の一局面として抵抗権をいう場合、それは、政府が権力を濫用し、立憲主義憲法を破壊した場合に、国民自ら実力をもってこれに抵抗し、立憲主義憲法秩序の回復をはかる権利をいう。 1 この権利は、憲法上明文で保障されている場合にはもとよりのこと、そうでない場合でも「自然権」を基盤とする立憲民主主義憲法に内在するところの、実定法上の権利であると解される(A説。もっとも、実定法上の権利だといっても、以下のようにかなり特殊なものではあるが)。日本国憲法は抵抗権を明示的には保障していないが、12条において憲法の保障する国民の権利・自由は「国民の不断の努力によつて」保持すべきことを定め、97条において「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」たる「基本的人権」の保全に努めるべき国民の責務を規定しているのは、右の趣旨を明らかにしているものと解される。かかる意味での抵抗権は、立憲主義的な憲法を擁護するという保守的な性格をもつもので、異常な事態における憲法保障機能を有するものであって、その限りにおいていわゆる革命権と区別される。 2 もっとも、抵抗権論の中には、自然法にその根拠を求め(B説)、 ① 実定憲法上の規定の有無にかかわりなく保障される権利であるとする説(B1説。実定憲法上規定されれば実定法上の権利となるが、そのことによって抵抗権が自然法的性格を失うわけではない、などと説かれる)、あるいは、 ② 同じく自然法にその根拠を求めつつ、それは要するに実定法上の義務を《それ以外の何らかの義務》を根拠にして否認することが正当とされる権利(つまり実定法を破る権利)であって、故に抵抗権を実定法上の権利とすることは論理矛盾であるとする説(B2説) などがあり、さらには、 3 「歴史の発展法則」に抵抗権の存在根拠T発動基準を求める史的唯物論の立場からの説(C説)もある。 C説については、「歴史の発展法則」とは具体的に何であり、それは如何にして認識し得るかの課題がある。 B1説とB2説とは、抵抗権の根拠とされる自然法の性格・内容についての理解を異にしている。 B2説のように、抵抗権をもって実定法上の義務を《それ以外の何らかの義務》を根拠にして否認するものであると理解する限り、抵抗権が実定法上の権利たり得ないのは当然の帰結となる。 が、抵抗権はそのように広く漠然と捉えるべきではなく、近代立憲主義の背景にある「自然権」思想を基盤に構成さるべきであろう(もっとも、ここにいう「自然権」は、B1説の想定するように、必ずしも自然法の存在を前提とするものではない。第四編第一章第三節Ⅰ〔392頁〕参照)。 従って、「自然権」を基盤とする立憲主義憲法の下では抵抗権は実定法上の権利たり得るが、「自然権」を基盤としない反立憲主義憲法体制下にあっては非実定法的な革命権として存在するにとどまることになる。 (b) 抵抗権行使の条件 立憲主義憲法秩序が維持されている限り、個々の不正・不法の国家行為に対しては、言論・出版・集会・請願などの憲法上の自由・権利の行使により、あるいは訴訟を通じてその違法性・違憲性を争うことにより、それを匡す途が開かれており、人権を侵害する個別的公務執行行為に対する実力による抵抗も違法性阻却の法理による適正な処理の途がある。 このような状況の場合に敢えて抵抗権を問題にする必要はないし、抵抗権は《実力による闘争》であるから(このように抵抗権は実力の行使を伴う点で、法違反行為でありながら非実力的・非暴力的ないわゆる市民的不服従と区別される)、その濫用は立憲主義体制を不当に混乱せしめる危険を内包していることも注意する必要がある。 従って抵抗権の行使は、政府権力の濫用などによって立憲主義憲法秩序が重大な危機に曝され、人権の行使が一般的に妨げられるようになった状況において、はじめて問題となるものと解される。 この点について、 ① 「憲法の各条規の単なる違反ではなく民主主義の基本秩序に対する重大な侵害が行われ憲法の存在自体が否認されようとする場合」であり、 ② 「不法であることが客観的に明白でなければなら」ず、 ③ 「憲法法律等により定められた一切の法的救済手段がもはや有効に目的を達する見込がなく、法秩序の再建のための最後の手段として抵抗のみが残されていることが必要である」、 とする下級審の判決例がある(札幌地判昭和37年1月18日下刑集4巻1・2合併号69頁)。 ただ、憲法の一条規違反であっても、立憲主義憲法体制の重大な変質をきたすような場合が考えられ得るのであって、①の要件をあまり厳格に解するのは疑問とすべきであろう。 この抵抗権に比べて、より現実的・具体的意義をもつものとして、先にも触れた市民T系不服従がある。 市民的不服従は、立憲主義憲法秩序を一般的に受容した上で、異議申立の表現手段として法違反行為を伴うが、それは「悪法」を是正しようとする良心的な非暴力的行為によるものであるところに特徴があり、そのような真摯な行為の結果、「悪法」が国会によって廃止されたり、裁判所によって違憲とされて決着をみることがあり得、そのことを通じてかえって立憲主義憲法秩序を堅固なものとする役割を果たし得る。 かかり市民的不服従を一個の権利と称するかどうかはともかく、それは、究極的には抵抗権と相通ずる性質をもちつつ、正常な憲法秩序下にあって個別的な違憲の国家行為を是正し、抵抗権を行使しなければならない状況に立ち至ることを阻止する役割を果たすものとして注目される。 ■4.第四節 憲法と国家と主権 ◆Ⅰ 国家 ◇(1) 国家の概念 上述のように、憲法は国家生活のあり方にかかわる法であることから、そのことの関係で国家とはそもそも何かについて若干論及しておく必要がある。 国家と呼ばれる社会団体の存在性格・様式は、時代によりまた所により一定しないが、近代国家は、一定の地域を基盤として、その所属員の包括的な共同目的の達成を目的に、固有の支配権によって統一された非限時的の団体であるという点で概ね共通している。 このように、国家の本質を、地域、所属員、固有の支配権の3要素に集約せしめて理解しようとする見解は、一般に国家3要素説と呼ばれる。 右のように、まず国家は一定の地域をその存立の基盤としており、国家がその支配権を原則として排他的に及ぼし得るこの区域は「領土」と呼ばれ、領陸、領海および領空よりなる。 換言すれば、領土はその国家法秩序の空間的妥当範囲であって、その範囲は国家の領有意思を基礎に国際法によって規定される。 憲法中に領土に関する規定が置かれることもあるが、日本国憲法にはその種の規定はない。 現在の我が国の領土は、基本的にはポツダム宣言および平和条約の定めるところによっている。 国家の人的要素たる所属員は「国民」と呼ばれ、この国民たる身分(国籍)を如何なる範囲において認めるかはそれぞれの国家の定めるところによる。 日本国憲法は国籍の取得・喪失について法律の定めるところに譲っているが(10条)、この点については後述する(第二編第一章第一節(87頁))。 第三の要素である固有の支配権は、「国権」とか「統治権」とかあるいは「主権」とか呼ばれる。 「国権」は、伝統的な見解にあっては、国家の法上の人格すなわち国家の意思力を指す観念とされ(ここから国権の唯一不可分性が帰結される)、それに対して「統治権」は国家が国際法および国内法上有する権利の総体である(従って統治権は可分となる)として国権と区別されることもあるが、今日では、国権と統治権は同義に使用されることが多い。 「統治権」の内容は国によって一様ではありえないことになるが、国家である以上次の3種の基本的能力、すなわち、①領土内にある人および物を支配する権利たる領土高権、②国家の所属員を支配する権利たる対人高権、③国家の組織・権限の有り様を自らの意思により定めることのできる権利たる自主組織権(権限高権)、を備えているものでなければならない、とされる。なお、また、「国権」または「統治権」は「国家において統治活動をなす権力」の意味で用いられることもある(日本国憲法41条にいう「国権」はその例であるとされる)。 「主権」の語も多義的で、国権あるいは統治権と同義に用いられることのほか、国権の属性としての最高独立性の意味で用いられたり、また国家の統治活動の有り方を最終的に決定する力ないし権威の意味で用いられたりすることがるが、この点については後述する。 国家の第三の要素としての支配権は、国際組織が発達し相互依存的な今日の国際社会にあっては、かつてと違って様々な制約を受けることが多くなる傾向にある。 ◇(2)国家の法人格性 (イ)国家の法人格性 法的認識の問題としてみた場合、国家は一個の統一的法秩序を形成しているといえようが、この法秩序の統一性をもって擬人的に法人格と称されることがあり、この意味で国家は法人格を有する、つまり国家は法人であるとみることができる。 さらに、国家は、実定法の内容に照らして、人格を有するとみなされる、というように言われる。 我が国の現行法上、国家は、財産権の主体としての関係において「国庫」と呼ばれ(民法239条・959条)、「国債」を負担したり、「国有財産」を有することが認められ、また、対外的な国際法上の関係において法主体として登場する。 この意味における国家の法人格性の範囲は、専らそれぞれの国家の実定法の定めるところによって決まることになる。 (ロ)国家法人説 19世紀ドイツにおいて登場し、我が国に多大の影響を及ぼした国家法人説は、右に述べたような意味での国家の法人格性を超えて、独特の意義と背景をもつものであったことが注目される。 つまり、国家法人説は、国家をもって社会学的には社団であり、法学的には法人であるとするとともに、従来の主権観念をもって専らかかる国家自体の特性を示すものとして把握し、それ以外の主権の意味を回避しようとしたところに特徴をもつものであった。 国家自体が意思力をもち、本来の主権はその意思力の最高性を示す観念として把握される。 このように国家の統治の有り方を最終的に決めるのは人格としての国家であるとする(国家主権説。ここでの国家主権は、国家が対外的に独立しているという意味での国家主権と異なることに注意)背景には、一方では絶対主義的君主主義論を克服し、他方では国民自身による積極的・具体的な統治を追求する国民主権論を抑止しようとする政治的低意が働いていたことが指摘される。 アメリカ合衆国などのように国民主権の確立した国において、とりたてて国家法人説が主張され発展せしめられることのなかったのは、まさにこの説のもつかかるイデオロギー性を示しているといえる。 他方、神権的国体観念を払拭しきれなかった明治憲法下において、国家は法人にして天皇はその機関とする天皇機関説は、結局において、「民主共和の説」として排撃されるところとなる。 国家法人説は、このように法人たる国家に主権があるとしたが、いわゆる国家の自己制限ないし自己義務づけの理論によって、主権の最高独立性と国家の被法的拘束性とを両立せしめ、そのことによってまた個人の自由の観念とも調和せしめようとした。 しかし、個人の「自然権」を基礎とする徹底した立憲民主主義の観点からすれば、いわゆる国家法人説は、国家の統治の正当性の契機を回避するとともに(従来の君主主権か国民主権かの問題は、国家意思を供給する国家機関の組織のあり方の問題と化す)、結局において国家の絶対性を措定し、個人の自由の観念と調和困難な説(国家固有の統治権はしばしば無条件に団体員を支配しその意思を規律しうる力であると説かれる)として受け入れ難いものとみなされざるをえないことになる。 もっとも、政治社会には唯一の究極的で絶対的な権威ないし権力が存しなければならないという観念たる「主権」は、結局のところ抽象的人格性を備える国家に帰属すると考えるとしても(その意味では国家主権説)、そのような属性をもつ国家を誰の権威でどのように運営するかの問題は残り、その主体的・具体的意思・権威はどこにあるかの問題こそ君主主権か国民主権かの問題である、というように考えることはできる。 国家と人権との関係をめぐる問題は後述するので(とくに第四編)、次に国家と主権と憲法との関係をめぐる問題をもう少し立ち入って考察することにしたい。 ◆Ⅱ. 主権 ◇(1)主権観念の展開 (イ)主権観念の登場 主権観念は、まず、フランス王権について、対外的にはローマ皇帝およびカトリック法王の権威・権力からの独立性を、体内的には封建諸侯に対しての優越性を、示すものとして登場した。 この主権観念の確立に理論的指導性を発揮したのはバーダンで、彼は、主権は国家の絶対的かつ恒久的権力であって、最高、唯一、不可分のものであり、すべての国家にとって不可欠の要素であると説いた。 そしてかかる主権観念は、近代国家への移行過程において他のヨーロッパ諸国でも広く用いられるようになる。 この段階では、国家は君主と一体的に観念されていたから(「朕は国家なり」)、国家自体の主権とその国家内において最高意思はどこにあるかということ(国家内における最高権の問題)とは次元を異にする別個の問題であることは十分意識されていなかった。 しかるに、君権に対する市民層の不満を背景に、国民主権ないし人民主権が登場するに及んで、主権論の力点は国家内の最高権の所在の問題に向けられることになる(もっとも、この段階でも君主を人民に取って換えただけで、人民即国家と考える傾向がみられる)。 (ロ)国民主権・人民主権 (a) 国民主権論は、近代自然法論に依拠する社会契約説を根拠に登場した。社会契約説は、その理論構成如何によっては、なお君主主権を根拠づけるところともなるが(ホッブズ)、一般に、あくまでも各人の自然権の保全を基軸に考え、その保全に必要な限度での統治の権力の信託という構成をとることによって国民主権を帰結した(ロック)。つまり、国家権力を支えるのは国民であり、国民の支持がある限りにおいてのみその行使が正当化される。しかしこの見解は、国民主権の名にふさわしい実をあげる具体的方法・プロセスを明確にしていないきらいがあった。 (b) 同じく社会契約説に立脚しつつ、それを単に国家統治の正当性の根拠とするにとどまらず、国民による直接統治を帰結する説(ルソー)は、右の国民主権論に対する批判にして一つの解答であったとみることができる。そこでは、主権は子かを構成する全人民の、常に共同の利益を欲して誤ることのない一般意思として把握され、具体的には一般意思は立法意思と同一視され、それは全市民の参加によって行使されるものとみなされた。主権は絶対的なもので、不可分・不可譲・不可代表の性質をもつ。それは議会制を否定する徹底した直接民主主義的人民主権論であるが、従来の絶対主義的君主主権を端的に人民に取って換えたきらいがあり、現実の国家の実態に即した理論としては無理な性格のものであった。一般意思は常に共同の利益を欲する意思だとされるが、具体的な立法意思がそうであるという保障はなく、絶対的な一般意思の名における個人や少数者の抑圧という可能性は常に存する(ルソーの人民主権論が後世において人民独裁の国家論と評されることのある理由はここにある)。また、主権は不可分だとされるが、主権の主体としては具体的な個々人ないしその総体が想定されていて、理論的整合性の点でも問題を孕んでいた。 (c) このような国民主権論、人民主権論の問題性の文脈においてみると、国民主権を基本的に憲法制定権力として把握しようとする説(シェイエス)は注目すべき見解であったといわなければならない。そこでは、「憲法を制定する権力(pouvoir constituant)」と「憲法によってつくられた権力(pouvoirs constitues)」とが区別される。そして、前者は、自然法の下に、国民がこれを有し、単一不可分であり、それ自体いかなる形式にも服することのない、「意欲しさえすれば十分である」万能の存在であるとされ、他方後者は、憲法制定権力の制定した憲法によって組織されるところの立法権・執行権といった権力で、憲法による規制下に立つ存在であるとされた。ここではルソーの一般意思と同様主権の絶対性が措定されつつも、他方憲法制定権力と立法権との本質的区別がなされることによって、代議制や権力分立制と結合する途が開かれたのである。この憲法制定権力の観念は、右のシェイエスにみられるように徹底して理論化されるということはなかったが、アメリカにおいていち早く現実のものとなった。権力の根源である国民が人為的に制定した成文の憲法によって国家の統治構造と国民の権利を定め、国政の運営およびそれにまつわる問題の解決は全てこの成文の憲法に立ち返って行なうという行き方が定着した。アメリカの憲法制定権力は、ヨーロッパのそれのように激しく対立すべき“敵”(アンシャン・レジーム)をもたず、当初から民主的基盤の上に成立したことが関係してか、本質的に非実体的・非権力的で、憲法制定会議とその成案の承認を通じて、法律よりも高次の妥当性を根拠づけるという機能に基本的に集約される。それには、アメリカの立憲主義がイギリスの古典的立憲主義と必ずしも切断されず、むしろある面ではそれを引き継ぐ形で成立したものであること、第二に、アメリカの憲法制定権力は、革命初期の諸邦における立法権優位の経験に基づく反動として、個人の諸権利を確実なものとするという保守的な土台の上に構想されたものであること、などが関係していたと思われる。 (d) フランス革命期は、君主主権、国民主権、ルソー流人民主権、シェイエス流憲法制定権力など様々な観念が競い合った時代であった。1789年の「人および市民の権利宣言」にはルソー的思想の影響が指摘されているが、1791年の憲法は、君主主権を否定すると同時に、ルソー流人民主権をも斥けて、国民主権に与する姿勢を明確にした。そこでは、「主権は、単一、不可分、不可譲で時効にかかることがない。主権は国民に属する」とされるが、「権力の唯一の淵源である国民は、委任によってのみその権力を行使しうる。フランスの国家体制は代表制である」と明言されている。つまり、主権者たる「国民(nation)」は抽象的な観念的統一体としての国民であって、それ自体として具体的な意思・活動能力を備えた存在ではありえず、委任(包括的・集団的な代表委任)が不可避的に帰結されたのである。代表と被代表との間の選任関係を不可欠の要素とせず、制限選挙制が採用され、訓令委任が禁止されたことなどは、いずれも国民(nation)主権の帰結であった。他方、シェイエス流憲法制定権力は、憲法を制定し変更する権力として一括して把握されてものであったが、91年憲法においては、制定権力と改正権とに分離され、改正権は法的統制下におかれるとされる一方、制定権力は依然として法的統制を受けない存在であるものの、観念化され、憲法の妥当性を根拠づけるという機能に封じ込ようとする姿勢が示された。ところが、93年憲法は、国民主権を斥けて、むしろ人民主権の考え方に依拠することを明らかにする。ここでの「人民(peuple)」は、もはや抽象的な観念的統一体としての存在ではなく、それ自体活動能力を備えた具体的に把握できる存在である。かくして、憲法改正のイニシアティヴは第一次集会に組織された人民に帰属せしめられ、また「人民が法律につき表決する」ものとされた。そして、男子普通選挙制の下で直接選挙によって選出された立法府が統治機構の中で極めて高い地位を占めていることも見逃せない点である。 (e) 右にみたように、フランスにおいては国民主権と人民主権とは別個のものとして区別され、両者間の葛藤が歴史を彩ることとなるが、選挙権の拡大につれ次第に議会は実在する民意を忠実に反映すべきであると考えられるようになり(第一節Ⅲ(7頁)参照)、第三共和制憲法下においてそうした考え方が定着するに至る。理論上の曖昧さを残しながらも、実質的意味において人民主権への傾斜である。他方、憲法制定権力論は、この第三共和制憲法の下で立憲主義が定着するにつれて後退し、むしろ制定権力をもって法の世界の外の問題と解し、法的には改正権のみが問題とされるようになる。そして、さらには改正権と立法権との区別さえ曖昧化してしまう。この点は法実証主義の強い影響下にあった19世紀後半のドイツ憲法学において一層顕著で、憲法改正権は立法権と同一視されている。 (ハ)国家主権権 国家主権論については、既に触れた。 繰り返せば、右の君主主権と国民主権・人民主権を忌避して、法人たる国家に主権が帰属するとしたもので、当時のドイツの法実証主義憲法学にいかにも相応しい考え方であったということができよう。 ここでは、主権の主体は法人たる国家に属するということで主権の人格性は残存しているが、本来の主権論からすれば主権観念の非人格化である。 主権観念は歴史的にみて公法学の領域から追放することはできないが、それを限定的に用いようとする態度であって、主権とは、国家権力が法的な自己決定および自己拘束をなす排他的能力をそれによってもつことになる、国家権力の特性である、などと説かれた。 この点さらに押し進めて、主権の主体の問題を認めず、むしろ法秩序の効力の属性の意味、つまり法秩序の至高性・非伝来性の意味において主権観念を捉えようとする見解も登場してくる。 (ニ)実力としての憲法制定権力 シェイエスによって主張された憲法制定権力は、右に見たように、ヨーロッパにあっては、立憲主義の確立過程において、法実証主義的思考傾向の下に、法の世界の外に放擲されたが、ワイマール憲法下において、シュミットによって新たな装いの下に再び重要な観念として導入されることになった。 彼は、ワイマール憲法前文の「ドイツ国民は、・・・・・・この憲法を制定する」の文言および1条の「国権は、国民より発する」という規定に着目し、それは憲法制定権力が国民にあること、つまり同憲法が国民主権主義に立脚するものであることを明確にしたものであると捉えたのである。 それでは、彼のいう憲法制定権力とは何か。 彼によれば、それは「自己の政治的実存の態様と形式に関する具体的な全体決定を下すことのできる、すなわち、政治的統一体の実存を全体として規定することができる実力または権威をもった政治的意思」であるとされた(この「憲法」を前提にしてはじめて妥当する憲法規定の集合は「憲法律」と呼ばれる)。 この憲法制定権力は、シェイエスの場合と違って自然法の観念を払拭した、すべての規範の上に立つ実力であり、そのこととも関連して制定権力の担い手は国民であることを要しないとされている(君主や少数者の組織も担い手でありうる)点に特色がある。 制定権力は、「移付され、譲渡され、吸収され、使い果たされることはありえ」ない、「可能態として常に存続」するものであるが、シェイエスの場合とは違って、憲法改正権とは峻別されている。(第三節Ⅱ(34頁)参照)。 シュミットの制定権力論は、主権の権力的契機を純粋に追求した結果得られた観念であったと解することができよう。 しかし、その実態は何かという段になると、喝采であり、現代国家では世論であることが示唆されるのみで、著しく神秘的色彩を帯びるものとなっている。 ◇(2)実定法上の主権観念 以上主権観念の史的展開を瞥見したのみで、その他にも種々の主権観念がある。 そして第二次大戦後、シュミット流の活性的な決断主義的憲法制定権力論を否認ないし克服しようとする傾向が顕著である点は指摘しておく必要があろう。 ここではその委細について論及する余裕はないので、以下実定法とりわけ日本国憲法との関係で重要と思われる主権観念を整理し、その意義を再確認するにとどめておく。 明治憲法は、「統治権」という語を用いつつも「主権」という語は使用しなかったが、日本国憲法は、「主権」という語を何箇所かで使用し、むしろ「統治権」という語を用いてはいない。 「主権」についての明治憲法以来の有力な伝統的説明によれば、 ① 最高権(自己の意思に反して他より制限を受けざる力)、 ② 統治権(人に命令し強制する権利)、 ③ 国家内における最高機関の地位、さらには、 ④ 国家の意思力そのもの、 を指すといわれた(美濃部達吉)。 1 これらの意味の中、まず、①は、国家の意思力の最高性、独立性ないし自主性に着眼しているもので、国家の意思力の属性を示すものである。日本国憲法前文に「この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、・・・・・・」とあり、あるいは平和条約前文に「連合国及び日本国は、・・・・・・主権を有する対等のものとして・・・・・・」とあるのが、その例である。 2 それに対して、④は、国家の意思力そのものを指してのもので、「国権」とか「統治権」とか呼ばれるものである。「主権」が唯一不可分であるという場合の主権はこの意味であると説かれる。もっとも、既に見たように、「国権」あるいは「統治権」という語自体がまた一義的でなく、「国権」は国家の意思力そのものを指すのに対し、「統治権」は国家が有する権利の総体であるとして区別され、国家である以上3種の基本的権利、すなわち地域的統治権または領土高権、対人的統治権または対人高権、自主組織権(権限高権)を有するものでなければならない、などと説かれる。 3 ②は、このような「統治権」に対応するものということになる。ポツダム宣言の8項に「日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」とあるのがその例であるとされ、あるいは、領土主権といい、領土の割譲を主権の割譲というがごときもその例であるとされる。 4 問題は、③の「主権」観念である。 明治憲法時代、「唯一最高無限ニシテ独立」という「主権」概念により、その「主権」の所在如何によって君主国体と民主国体に分かつ説もあったが(穂積八束)、右の説(美濃部説)はそうした「主権」観念を排して最高の機関の地位について語ろうとするものである。すなわち、美濃部は、明治憲法の「最も重要な根本主義」として「君主主権主義」に言及したが、それは、「統治を行ふ力が君主にその最高の源を発すること」、つまり君主が国家の「最高の機関」として「統治の最高の源泉たる地位に存ますこと」と解し、そして、「憲法制定権力」と「被制定権力」とを区別し、前者はその性質上何らの拘束も受けないというシェイエスの所説に触れて明確にそれを排撃した。「国民が憲法以上に在って憲法の拘束を受けないものとすることは国民に不断の革命の権利を認むることであって、恰も専制主義の君主主権説に於て君主の権力が憲法以上に超越し、何時でも憲法を廃止変更することが出来るとする説と同様の誤に陥いって居る」というのがその理由である。美濃部は、第二次大戦後も、国家法人説的見地に立って、統治の権利主体は常に国家それ自身であると捉え、日本国憲法前文に「ここに主権が国民に存することを宣言し」と明言し、本文1条に天皇の地位が「主権の存する日本国民の総意に基く」とあることをもって、「国家の統治権を行使する権能即ち国家の原始的直接機関として統治権を発動する力」が天皇から国民に移ったことを示すものと解した。が、同時に、美濃部は、日本国憲法の成立に関し、いわゆる「八月革命」説に投じ、「憲法制定権」という言葉も使用したりして、「憲法制定権力」への傾斜を思わせる態度を示した。 この点、「国民主権」にいう「主権」とは、「国家の政治のあり方を最終的にきめる権力あるいは権威」であるとし、「シェイエス流に、『憲法制定権力』といってもいいかも知れない」と明言したのが宮沢俊義である。そして、憲法にいう「国民主権」をそのような意味において理解する立場が支配的となったが、なおその具体的意味について解釈論上各種の考え方がありうるところで、その点については後に詳述する(第二編第一章第二節(92頁)参照)。
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朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。 御名御璽昭和二十一年十一月三日内閣総理大臣兼外務大臣 吉田茂国務大臣 男爵 幣原喜重郎司法大臣 木村篤太郎内務大臣 大村清一文部大臣 田中耕太郎農林大臣 和田博雄国務大臣 斎藤隆夫逓信大臣 一松定吉商工大臣 星島二郎厚生大臣 河合良成国務大臣 植原悦二郎運輸大臣 平塚常次郎大蔵大臣 石橋湛山国務大臣 金森徳次郎国務大臣 膳桂之助 日本国憲法 前 文 説明 中川八洋・改憲案 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。 削除大東亜戦争に関する戦勝国への謝罪文。1952年4月のサンフランシスコ講和条約の発効をもって死文。自由社会の憲法にあってはならない「国民主権」などの不適切な用語がある。書換案日本国民は、祖先より相続した美徳ある自由の満ちる祖国が、未来悠久に存続するために、世襲の義務を果すことを決意して、主権を喪失した占領下に制定された「日本国憲法」を改正し、ここに新しく憲法を制定する。 第1章 天 皇 説明 中川八洋・改憲案 第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。 天皇の地位、国民主権 大幅修正元首である天皇を元首と明記する。「国民主権」は存在させてはならない。本書第一章参照のこと。 第2条 皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。 皇位継承 新条項皇室典範の非法律化。「改正は皇室の発議による」は、昭和天皇のご遺志。 第3条 天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。 天皇の国事行為と内閣の責任 大幅修正「内閣の助言と承認」は不敬用語で不適切。「奏請」が正しい言葉。新条項君が代と日の丸の定め。 第4条 天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。2 天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる。 天皇の権能の限界、天皇の国事行為の委任 第5条 皇室典範の定めるところにより摂政を置くときは、摂政は、天皇の名でその国事に関する行為を行ふ。この場合には、前条第一項の規定を準用する。 摂政(皇室典範) 第6条 天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。2 天皇は、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。 天皇の任命権 第7条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。△1.憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。△2.国会を召集すること。△3.衆議院を解散すること。△4.国会議員の総選挙の施行を公示すること。△5.国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。△6.大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること。△7.栄典を授与すること。△8.批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。△9.外国の大使及び公使を接受すること。△10.儀式を行ふこと。 天皇の国事行為 第8条 皇室に財産を譲り渡し、又は皇室が、財産を譲り受け、若しくは賜与することは、国会の議決に基かなければならない。 皇室の財産授受⇒皇室経済法へ 大幅修正皇室財産については、旧制に戻す。第88条と統合する。新条項皇室財産の皇室への帰属。 第2章 戦争の放棄 説明 中川八洋・改憲案 第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 戦争の放棄、戦力・交戦権の否認 大幅修正敗戦国の占領者への武装解除誓約の定めをいつまで残すのか。国防軍の創設を定める。本書第ニ章参照のこと。新条項「国防」のなかに「固有の領土防衛」を含む旨の定め。 第3章 国民の権利及び義務 説明 中川八洋・改憲案 第10条 日本国民たる要件は、法律でこれを定める。 日本国民の要件⇒国籍法へ 第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。 基本的人権の享有 削除「人権」は反憲法の概念。本書第五章参照のこと。 第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。 自由・権利の保持義務、濫用禁止、利用責任 第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。 個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重 (1項)削除「個人の尊重」とは「人間の個(アトム)化」を前提としており、アナーキズム若しくは全体主義に至る危険思想。「個人の尊厳」は伝統と慣習の宿る「中間組織」の存在と他者の支えが不可欠。「中間組織」の擁護が憲法原理であって、「個人の尊厳」は憲法としては排除すべきもの。(2項)削除生命・自由・幸福追求という「国民の権利」の一つは、中川草案第16条に統合。 第14条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。2 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。3 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。 法の下の平等、貴族制度の否認、栄典の限界 (1項後段)削除「法の前の平等」の重複説明部分は不要。(2項)削除華族は一部復活する。新条項華族制度の部分的復活。 第15条 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。2 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。3 公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。4 すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。 公務員の選定罷免権、公務員の性質、普通選挙・秘密投票の保障 第16条 何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。 請願権 第17条 何人も、公務員の不法行為により、損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国又は公共団体に、その賠償を求めることができる。 国および公共団体の賠償責任 削除国家賠償法に規定されている。 第18条 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。 奴隷的拘束および苦役からの自由 削除アメリカ黒人解法の定めは日本に不要。 第19条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。 思想および良心の自由 第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。 信教の自由、国の宗教活動の禁止 大幅修正日本に特有な宗教絶滅運動である「政教分離」は“正しい憲法”の拒絶するもの。本書第七章を参照のこと。第89条はここに統合。新条項英霊を祀る靖国神社を守る国民の義務の規定。新条項無神論者の反宗教活動の禁止。 第21条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。 集会・結社・表現の自由、検閲の禁止、通信の秘密 第22条 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。2 何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。 居住・移転・職業選択の自由、外国移住・国籍離脱の自由 第23条 学問の自由は、これを保障する。 学問の自由 第24条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。 家族生活における個人の尊厳と両性の平等 大幅修正「家族重視」は憲法の根本的規定の一つ。本書第三章を参照のこと。 第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。 生存権、国の生存権保障義務 削除不要。 第26条 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。 教育を受ける権利、教育を受けさせる義務、義務教育の無償 第27条 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。2 賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。3 児童は、これを酷使してはならない。 勤労の権利・義務、勤労条件の基準、児童酷使の禁止 削除「労働」の聖化は社会主義イデオロギーだから、自由社会の憲法に不適。「勤労の義務」化は、強制重労働収容所に直結する。その他は、法律で充分に定められている 第28条 勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する。 勤労者の団結権・団体交渉権その他の団体行動権 削除27条と同様の理由 第29条 財産権は、これを侵してはならない。2 財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。3 私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。 財産権 第30条 国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。 納税の義務 第31条 何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。 法定の手続の保障 大幅修正中川草案第29条の一つにまとめる。 第32条 何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない。 裁判を受ける権利 大幅修正中川草案第29条の一つにまとめる。 第33条 何人も、現行犯として逮捕される場合を除いては、権限を有する司法官憲が発し、且つ理由となつてゐる犯罪を明示する令状によらなければ、逮捕されない。 逮捕の要件 大幅修正中川草案第29条の一つにまとめる。 第34条 何人も、理由を直ちに告げられ、且つ、直ちに弁護人に依頼する権利を与へられなければ、抑留又は拘禁されない。又、何人も、正当な理由がなければ、拘禁されず、要求があれば、その理由は、直ちに本人及びその弁護人の出席する公開の法廷で示されなければならない。 抑留・拘禁の禁止 第35条 何人も、その住居、書類及び所持品について、侵入、捜索及び押収を受けることのない権利は、第33条の場合を除いては、正当な理由に基いて発せられ、且つ捜索する場所及び押収する物を明示する令状がなければ、侵されない。2 捜索又は押収は、権限を有する司法官憲が発する各別の令状により、これを行ふ。 住居侵入。捜索・押収に対する保障 削除刑事訴訟法など法律で規定されている。 第36条 公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。 拷問・残虐な刑罰の禁止 削除35条と同様の理由 第37条 すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する。2 刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与へられ、又、公費で自己のために強制的手続により証人を求める権利を有する。3 刑事被告人は、いかなる場合にも、資格を有する弁護人を依頼することができる。被告人が自らこれを依頼することができないときは、国でこれを附する。 刑事被告人の権利 削除35条と同様の理由 第38条 何人も、自己に不利益な供述を強要されない。2 強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。3 何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。 自己に不利な供述の強要禁止、自白の証拠能力 削除35条と同様の理由 第39条 何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない。 刑罰法規の不遡及、一事不再理 削除35条と同様の理由 第40条 何人も、抑留又は拘禁された後、無罪の裁判を受けたときは、法律の定めるところにより、国にその補償を求めることができる。 刑事補償 削除35条と同様の理由 第4章 国 会 説明 中川八洋・改憲案 第41条 国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。 国会の地位、立法権 ※三権の順序※現在の「国会→内閣→裁判所」の順序を、「裁判所→内閣→国会」とする。デモクラシーの政治機関たる国会はそのデモクラシー性の故に制限されるべきものということと、司法は自由社会にとって最も重視されるべきものであることの二点を、国民が日々、拳拳服膺するため。新条項立法における伝統と慣習の重視。 第42条 国会は、衆議院及び参議院の両議院でこれを構成する。 両院制 第43条 両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する。2 両議院の議員の定数は、法律でこれを定める。 両議院の組織 第44条 両議院の議員及びその選挙人の資格は、法律でこれを定める。但し、人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によつて差別してはならない。 議員および選挙人の資格 第45条 衆議院議員の任期は、4年とする。但し、衆議院解散の場合には、その期間満了前に終了する。 衆議院議員の任期 第46条 参議院議員の任期は、6年とし、3年ごとに議員の半数を改選する。 参議院議員の任期 第47条 選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律でこれを定める。 選挙に関する事項の要立法 第48条 何人も、同時に両議院の議員たることはできない。 両議院議員の兼職禁止 第49条 両議院の議員は、法律の定めるところにより、国庫から相当額の歳費を受ける。 議員の歳費 第50条 両議院の議員は、法律の定める場合を除いては、国会の会期中逮捕されず、会期前に逮捕された議員は、その議院の要求があれば、会期中これを釈放しなければならない。 議員の会期中不逮捕特権 第51条 両議院の議員は、議院で行った演説、討論又は表決について、院外で責任を問はれない。 議員の発言・表決の無責任 第52条 国会の常会は、毎年一回これを召集する。 常会 第53条 内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いづれかの議院の総議員の4分の1以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。 臨時会 第54条 衆議院が解散されたときは、解散の日から40日以内に、衆議院議員の総選挙を行ひ、その選挙の日から30日以内に、国会を召集しなければならない。2 衆議院が解散されたときは、参議院は、同時に閉会となる。但し、内閣は、国に緊急の必要があるときは、参議院の緊急集会を求めることができる。3 前項但書の緊急集会において採られた措置は、臨時のものであつて、次の国会開会の後10日以内に、衆議院の同意がない場合には、その効力を失ふ。 衆議院の解散、特別会、参議員の緊急集会 第55条 両議院は、各々その議員の資格に関する争訟を裁判する。但し、議員の議席を失はせるには、出席議員の3分の2以上の多数による議決を必要とする。 議員の資格争訟の裁判 第56条 両議院は、各々その総議員の3分の1以上の出席がなければ、議事を開き、議決することができない。2 両議院の議事は、この憲法に特別の定のある場合を除いては、出席議員の過半数でこれを決し、可否同数のときは、議長の決するところによる。 定数足、表決 第57条 両議院の会議は、公開とする。但し、出席議員の3分の2以上の多数で議決したときは、秘密会を開くことができる。2 両議院は、各々その会議の記録を保存し、秘密会の記録の中で特に秘密を要すると認められるもの以外は、これを公表し、且つ一般に頒布しなければならない。3 出席議員の5分の1以上の要求があれば、各議員の表決は、これを会議録に記載しなければならない。 会議の公開、秘密会 第58条 両議院は、各々その議長その他の役員を選任する。2 両議院は、各々その会議その他の手続及び内部の規律に関する規則を定め、又、院内の秩序をみだした議員を懲罰することができる。但し、議員を除名するには、出席議員の3分の2以上の多数による議決を必要とする。 役員の選任、議院規則、懲罰 第59条 法律案は、この憲法に特別の定のある場合を除いては、両議院で可決したとき法律となる。2 衆議院で可決し、参議院でこれと異なつた議決をした法律案は、衆議院で出席議員の3分の2以上の多数で再び可決したときは、法律となる。3 前項の規定は、法律の定めるところにより、衆議院が、両議院の協議会を開くことを求めることを妨げない。4 参議院が、衆議院の可決した法律案を受け取つた後、国会休会中の期間を除いて60日以内に、議決しないときは、衆議院は、参議院がその法律案を否決したものとみなすことができる。 法律案の議決、衆議院の優越 新条項民法と刑法の改正等にかかわる審議における、参議院先議権の定め。 第60条 予算は、さきに衆議院に提出しなければならない。2 予算について、参議院で衆議院と異なつた議決をした場合に、法律の定めるところにより、両議院の協議会を開いても意見が一致しないとき、又は参議院が、衆議院の可決した予算を受け取つた後、国会休会中の期間を除いて30日以内に、議決しないときは、衆議院の議決を国会の議決とする。 衆議院の予算先議と衆議院の優越 第61条 条約の締結に必要な国会の承認については、前条第2項の規定を準用する。 条約の国会承認と衆議院の優越 第62条 両議院は、各々国政に関する調査を行ひ、これに関して、証人の出頭及び証言並びに記録の提出を要求することができる。 議院の国政調査権 第63条 内閣総理大臣その他の国務大臣は、両議院の一に議席を有すると有しないとにかかはらず、何時でも議案について発言するため議院に出席することができる。又、答弁又は説明のため出席を求められたときは、出席しなければならない。 国務大臣の議院出席の権利と義務 第64条 国会は、罷免の訴追を受けた裁判官を裁判するため、両議院の議員で組織する弾劾裁判所を設ける。2 弾劾に関する事項は、法律でこれを定める。 弾劾裁判所 第5章 内 閣 説明 中川八洋・改憲案 第65条 行政権は、内閣に属する。 行政権と内閣 第66条 内閣は、法律の定めるところにより、その首長たる内閣総理大臣及びその他の国務大臣でこれを組織する。2 内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。3 内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ。 内閣の組織 第67条 内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で、これを指名する。この指名は、他のすべての案件に先だつて、これを行ふ。2 衆議院と参議院とが異なつた指名の議決をした場合に、法律の定めるところにより、両議院の協議会を開いても意見が一致しないとき、又は衆議院が指名の議決をした後、国会休会中の期間を除いて10日以内に、参議院が、指名の議決をしないときは、衆議院の議決を国会の議決とする。 内閣総理大臣の指名、衆議院の優越 第68条 内閣総理大臣は、国務大臣を任命する。但し、その過半数は、国会議員の中から選ばれなければならない。2 内閣総理大臣は、任意に国務大臣を罷免することができる。 国務大臣の任免 第69条 内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、10日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。 衆議院の内閣不信任決議 第70条 内閣総理大臣が欠けたとき、又は衆議院議員総選挙の後に初めて国会の召集があつたときは、内閣は、総辞職をしなければならない。 内閣総理大臣の欠けつ、総選挙後の総辞職 第71条 前2条の場合には、内閣は、あらたに内閣総理大臣が任命されるまで引き続きその職務を行ふ。 総辞職後の内閣の職務 第72条 内閣総理大臣は、内閣を代表して議案を国会に提出し、一般国務及び外交関係について国会に報告し、並びに行政各部を指揮監督する。 内閣総理大臣の職務 第73条 内閣は、他の一般行政事務の外、左の事務を行ふ。△1.法律を誠実に執行し、国務を総理すること。△2.外交関係を処理すること。△3.条約を締結すること。但し、事前に、時宜によつては事後に、国会の承認を経ることを必要とする。△4.法律の定める基準に従ひ、官吏に関する事務を掌理すること。△5.予算を作成して国会に提出すること。△6.この憲法及び法律の規定を実施するために、政令を制定すること。但し、政令には、特にその法律の委任がある場合を除いては、罰則を設けることができない。△7.大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を決定すること。 内閣の事務 第74条 法律及び政令には、すべて主任の国務大臣が署名し、内閣総理大臣が連署することを必要とする。 法律・政令の署名 第75条 国務大臣は、その在任中、内閣総理大臣の同意がなければ、訴追されない。但し、これがため、訴追の権利は、害されない。 国務大臣の訴追 第6章 司 法 説明 中川八洋・改憲案 第76条 すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。2 特別裁判所は、これを設置することができない。行政機関は、終審として裁判を行ふことができない。3 すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。 司法権、裁判所、特別裁判所の禁止、裁判官の独立 第77条 最高裁判所は、訴訟に関する手続、弁護士、裁判所の内部規律及び司法事務処理に関する事項について、規則を定める権限を有する。2 検察官は、最高裁判所の定める規則に従わなければならない。3 最高裁判所は、下級裁判所に関する規則を定める権限を、下級裁判所に委任することができる。 裁判所の規則制定権 第78条 裁判官は、裁判により、心身の故障のために職務を執ることができないと決定された場合を除いては、公の弾劾によらなければ罷免されない。裁判官の懲戒処分は、行政機関がこれを行ふことはできない。 裁判官の身分保障 第79条 最高裁判所は、その長たる裁判官及び法律の定める員数のその他の裁判官でこれを構成し、その長たる裁判官以外の裁判官は、内閣でこれを任命する。2 最高裁判所の裁判官の任命は、その任命後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際国民の審査に付し、その後10年を経過した後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際更に審査に付し、その後も同様とする。3 前項の場合において、投票者の多数が裁判官の罷免を可とするときは、その裁判官は、罷免される。4 審査に関する事項は、法律でこれを定める。5 最高裁判所の裁判官は、法律の定める年齢に達した時に退官する。6 最高裁判所の裁判官は、すべて定期に相当額の報酬を受ける。この報酬は、在任中、これを減額することができない。 最高裁判所の構成、国民審査 第80条 下級裁判所の裁判官は、最高裁判所の指名した者の名簿によつて、内閣でこれを任命する。その裁判官は、任期を10年とし、再任されることができる。但し、法律の定める年齢に達した時には退官する。2 下級裁判所の裁判官は、すべて定期に相当額の報酬を受ける。この報酬は、在任中、これを減額することができない。 下級裁判所の裁判官、任期、定年、報酬 第81条 最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。 法令審査権 第82条 裁判の対審及び判決は、公開法廷でこれを行ふ。2 裁判所が、裁判官の全員一致で、公の秩序又は善良の風俗を害する虞があると決した場合には、対審は、公開しないでこれを行ふことができる。但し、政治犯罪、出版に関する犯罪又はこの憲法第3章で保障する国民の権利が問題となつてゐる事件の対審は、常にこれを公開しなければならない。 裁判の公開 第7章 財 政 説明 中川八洋・改憲案 第83条 国の財政を処理する権限は、国会の議決に基いて、これを行使しなければならない。 財政処理の基本方針 第84条 あらたに租税を課し、又は現行の租税を変更するには、法律又は法律の定める条件によることを必要とする。 課税の要件 第85条 国費を支出し、又は国が債務を負担するには、国会の議決に基くことを必要とする。 国費支出と国の債務負担 第86条 内閣は、毎会計年度の予算を作成し、国会に提出して、その審議を受け議決を経なければならない。 予算の作成と国会の議決 第87条 予見し難い予算の不足に充てるため、国会の議決に基いて予備費を設け、内閣の責任でこれを支出することができる。2 すべて予備費の支出については、内閣は、事後に国会の承諾を得なければならない。 予備費 第88条 すべて皇室財産は、国に属する。すべて皇室の費用は、予算に計上して国会の議決を経なければならない。 皇室財産・皇室費用 大幅修正皇室財産は皇室に属する。第8条とともに、中川草案第10条にまとめる。 第89条 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。 公の財産の支出利用の制限 削除正しい憲法に違反する宗教絶滅運動「政教分離」に悪用されるので、削除。 第90条 国の収入支出の決算は、すべて毎年会計検査院がこれを検査し、内閣は、次の年度に、その検査報告とともに、これを国会に提出しなければならない。2 会計検査院の組織及び権限は、法律でこれを定める。 決算、会計検査院 第91条 内閣は、国会及び国民に対し、定期に、少くとも毎年一回、国の財政状況について報告しなければならない。 財政状況の報告 第8章 地方自治 説明 中川八洋・改憲案 第92条 地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。 地方自治の基本原則 第93条 地方公共団体には、法律の定めるところにより、その議事機関として議会を設置する。2 地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する。 地方公共団体の機関、直接選挙 第94条 地方公共団体は、その財産を管理し、事務を処理し、及び行政を執行する権能を有し、法律の範囲内で条例を制定することができる。 地方公共団体の権能 第95条 一の地方公共団体のみに適用される特別法は、法律の定めるところにより、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会は、これを制定することができない。 特別法の住民投票 第9章 改 正 説明 中川八洋・改憲案 第96条 この憲法の改正は、各議院の総議員の3分の2以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。2 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。 憲法改正の手続 第10章 最高法規 説明 中川八洋・改憲案 第97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。 基本的人権の本質 削除自由社会の憲法にあってはならない「人権」の定め。 第98条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。2 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。 憲法の最高法規性と条約・国際法規の遵守 (1項)削除自明にて不要。 第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。 憲法尊重擁護の義務 削除不要。新条項全体主義や無国家主義を指向する政党の禁止。 第11章 補 則 説明 中川八洋・改憲案 第100条 この憲法は、公布の日から起算して6箇月を経過した日から、これを施行する。2 この憲法を施行するために必要な法律の制定、参議院議員の選挙及び国会召集の手続並びにこの憲法を施行するために必要な準備手続は、前項の期日よりも前に、これを行ふことができる。 施行期日 第101条 この憲法施行の際、参議院がまだ成立してゐないときは、その成立するまての間、衆議院は、国会としての権限を行ふ。 国会に関する経過規定 削除経過措置の定めであり、現在では不要。 第102条 この憲法による第一期の参議院議員のうち、その半数の者の任期は、これを3年とする。その議員は、法律の定めるところにより、これを定める。 第一期参議院議員の任期 削除101条と同様の理由 第103条 この憲法施行の際現に在職する国務大臣、衆議院議員及び裁判官並びにその他の公務員で、その地位に相応する地位がこの憲法で認められてゐる者は、法律で特別の定をした場合を除いては、この憲法施行のため、当然にはその地位を失ふことはない。但し、この憲法によつて、後任者が選挙又は任命されたときは、当然その地位を失ふ。 公務員に関する経過規定 削除101条と同様の理由 中川草案の主な新条項とその趣旨 中川草案 第2条第2項 皇室典範の非法律化。「改正は皇室の発議による」は、昭和天皇のご遺志。 第10条 皇室財産の皇室への帰属。 第11条第2項 「国防」のなかに「固有の領土防衛」を含む旨の定め。 第13条 君が代と日の丸の定め。 第17条第3項 英霊を祀る靖国神社を守る国民の義務の規定。 第22条第3項 無神論者の反宗教活動の禁止。 第48条第2項 立法における伝統と慣習の重視。 第50条第2項 華族制度の部分的復活。 第66条第6項 民法と刑法の改正等にかかわる審議における、参議院先議権の定め。 第72条第2項 全体主義や無国家主義を指向する政党の禁止。
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明治維新を手本に近代化に着手しながら、共産主義に取り込まれて道を誤った中国 「 ありのままに言えば、私達の目的はヨーロッパ人の目的とは全く正反対である・・・私達は自由があり過ぎて反抗したのであって、私達には団結心も抵抗する力もない。私たちは砂粒に過ぎぬ。 」 孫文 (1905年 『三民主義』) ◇目次 1.百年経っても近代国家に成れない中国の現状 2.清朝(Qing Dynasty)と支那(China)の区別 3.辛亥革命~中国近代化運動の実際 4.参考図書 5.「対華21ヶ条要求」(1915年1月18日)の実際 1.百年経っても近代国家に成れない中国の現状 【討論!】北京五輪後の中国と少数民族問題⑦ 【討論!】北京五輪後の中国と少数民族問題⑧ 【討論!】北京五輪後の中国と少数民族問題⑨ 【討論!】北京五輪後の中国と少数民族問題⑩ 【討論!】北京五輪後の中国と少数民族問題⑪ 【討論!】北京五輪後の中国と少数民族問題⑫ 2.清朝(Qing Dynasty)と支那(China)の区別 1760年代の東アジア(乾隆帝治下:清朝最盛期)(1)濃い黄色部分⇒支那(China)…万里の長城以南の漢人の伝統的な居住地(=漢土)(2)薄い黄色部分⇒支那ではないが清朝(Qing Dynasty)の領土(満州人・モンゴル人・チベット人・ウイグル人など漢人以外の諸民族の居住地)※台湾が支那に含まれる一方、朝鮮が支那以外だが清朝の領土に含まれていることに注目 3.辛亥革命~中国近代化運動の実際 ※1.の動画の解説となります (1) 始まりは日清戦争:遅まきながら立憲君主制を目指した清朝(1894-) ・日清戦争(1894-95)敗戦に危機感を持った清朝は、康有為・梁啓超らの進言で日本を手本にした近代化改革(戊戌維新)を始めるが、守旧派の抵抗で百日で頓挫。康有為・梁啓超は日本に亡命し、立憲君主制樹立を目指して活動(保皇党) ・日露戦争(1904-05)での日本勝利により、ロシアによる満州・モンゴルの植民地化を逃れた清朝は、日本に傾倒。1万人以上の留学生を日本に派遣し明治維新を手本に本格的な近代化への準備を進める。(政治・経済・社会制度改革に着手、1913年の立憲君主制発足も約束) ・日本政府/民間団体は清朝の改革を熱烈に支援(共に近代化したアジアの強国となって欧米列強に対抗することを目指した) (2) 「滅満興漢」を旗印に民族主義革命を強行した孫文、「満州割譲」に釣られた日本右翼(1911) ・ところが日本で新思想に触れた漢人留学生の間に、民族主義(漢民族による満州王朝打倒)を訴える孫文・黄興らの革命党が台頭し、康有為らの保皇党(改革派・立憲君主制支持)を圧倒してしまう。 ・清朝の自己改革を支持する日本政府は、孫文ら革命党に否定的であり警戒していた。(革命による混乱/日本への影響を懸念) ・一方、攘夷論(反欧米主義)/大アジア主義を標榜する日本在野の右翼団体(頭山満の玄洋社、内田良平の黒竜会など)は、孫文・黄興の革命路線に共鳴。亡命中の孫文らを資金/組織両面で支え続けた。 ・玄洋社/黒竜会は、かって征韓論を唱えて下野し、維新政府に討伐された西郷隆盛に連なる在野士族を主体に発足し、明治・大正~昭和初期の政治状況に大きな影響力を及ぼした在野の政治結社で、日本の右翼運動の源流とされる ・特に内田系の黒竜会は、孫文の「革命が成功し清朝を満州に駆逐したあとは、満州を日本に任せる」との誓約を信じて、多数の壮士が大陸に渡航、辛亥革命の武力面での指導者として活躍・・・「辛亥革命は日本人がやったことだ」(内田良平) (3) 袁世凱による革命の簒奪~清朝皇室と革命派の妥協により「中華民国」発足(1912) ・清朝は北洋軍閥の巨頭袁世凱を起用し革命鎮圧を委ねるが、自身が皇帝に成り上がる野心を抱いていた袁世凱は、①清朝宮廷(北京)には紫禁城内での宮廷維持・皇帝成人後の復位の仄めかし、②孫文の臨時政府(南京)には清朝皇帝の退位・共和国樹立、を餌に妥協を強い、自身が大総統に就任。発足した「中華民国」の実権を奪う(1912.2) ・しかし袁世凱の帝政樹立の野望は、改革派(立憲君主制支持派)・革命派双方の支持を得られず失敗(1916.3) ・袁世凱は失意のうちに病死し(1916.6)、以降、中華民国は軍閥・革命派・独立派諸民族が割拠する分裂状態に陥る ・袁世凱の統治期に日本政府から出された所謂「対華21ヶ条要求」については1.動画及び5.動画を参照 (4) ロシア革命の波及~共産主義者に煽動された五四運動・五四文化革命(排日運動・伝統文化否定)(1919.5.4) ・清朝末期の留学生には、在野の日本右翼ではなく、幸徳秋水など日本の左翼運動、更に欧州の共産主義運動に共鳴する者も現れた。その代表格が陳独秀・李大釗である。(陳・李は、のちに中国共産党を結成(1921)) ・陳独秀は帰国後、雑誌『新青年』を刊行、徹底した儒教批判と近代思想の紹介を行う。これに魯迅・胡適らの「白話文運動」(口語文を用いて民衆教化を訴える運動、「文学革命」ともいう)が合流して新文化運動が始まる。(1916-21、「五四文化革命」ともいう。1960年代の文化大革命の先駆的運動) ・1917年11月(露暦10月)ロシア10月革命。1919年2月 ソ連は世界革命を実行するためコミンテルン(国際共産党組織)を設立 ・1919.5.4、第一次世界大戦の講和条約締結問題を契機に、陳独秀・李大釗ら左翼文化人に煽動された学生達による排日運動が暴発(五四運動、2005年の反日デモをイメージせよ)・・・辛亥革命に成功した漢族の民族主義が、日本を次の標的とし始める。 (5) 孫文、革命のために「連ソ容共」に転じ、日本右翼を裏切る(1923.1) ・1919年7月 ソ連がロシア-清朝間で結ばれた不平等条約の即時撤廃を表明(カラハン宣言)、中国民衆の好感を獲得 ・辛亥革命の失敗を味わった孫文は、「孫文=ヨッフェ共同宣言」(1923.1)を発表し、革命の主パートナーを日本の在野右翼からソ連に切り替え、中国共産党と協力関係を結ぶ(第一次国共合作:1924.1)・・・国内基盤の弱かった孫文は革命運動を進めるために常に外国勢力の支援を必要とした。 ・孫文の「満州譲渡の誓約」を信じていた内田良平の黒竜会はこれに反発。以降、満州独立派に接近。 ・一方、頭山満の玄洋社は、なお「同種同文」たる日中両民族が同盟して欧米列強打倒を目指す「大アジア主義」構想を捨て切れず、孫文(のち蒋介石)率いる国民党との関係維持・日本政府との提携推進に努めたが、大東亜戦争終結に至るまで彼らの期待は裏切られ続けた・・・戦前の右翼は「大アジア主義」に固執し大失敗を犯したと言える。ただし、頭山・内田らは孫文らを叱りつけるなどの対応や反撃をしている。※参照外交の基礎知識 (6) 清朝皇室の紫禁城追放、立憲君主制構想の消滅(1924.7) ・軍閥抗争が続く華北で、なお将来の復位を望んで存続していた清朝宮廷は、1924年 軍閥(馮玉祥)の反乱により紫禁城から追放され、中国の立憲君主制構想は最終的に消滅 ・前皇帝溥儀は自身の希望により、北京の日本公使館を経て天津の日本租界に亡命。将来の満州帝国復活に希望を繋ぐ(帝師を務めたR.F.ジョンストン『紫禁城の黄昏』(1934刊)の記述から確実。しかし同書は東京裁判では戦勝国の建前に反するため無視された) (7) 蒋介石の北伐・国民革命(1926-28)、張作霖爆死(1928) ・孫文死去(1925)後の国民党(華南に基盤)は、蒋介石を指導者に北伐を開始。華中次いで華北を攻略し、不完全ながら漢土を制圧(国民革命)。その過程で蒋介石は、孫文の残した中国共産党との合作を破棄(上海クーデター、1927.7) ・蒋介石の北伐軍に敗れた張作霖は満州に退去するも、その途上で爆死(1928.6.4) ・張作霖の後継者で息子の張学良は、1928.12末に蒋介石の国民政府に帰服を宣言(易幟)。蒋介石は漢土・新疆に加えて満州も名目上統治することになったが、華南や陝西省などで共産党勢力との抗争が継続しており不安定な状態は続いていた。 ⇒以降の展開は中国はなぜ反日か?を参照 4.参考図書 紫禁城の黄昏―完訳 (上・下) R.F.ジョンストン (著), 中山 理 (翻訳), 渡部 昇一(監修)伊ベルトリッチ監督・坂本龍一音楽/出演でヒットした1987年公開の英・伊・中合作映画『ラスト・エンペラー』の重要なモチーフの一つであり、岩波文庫の翻訳本でも知られる名著ところが、岩波文庫本は、原著者R.F.ジョンストン(清朝最後の皇帝溥儀の帝師を勤めた英国人)が、自身の史観を述べた第1章~10章、第16章を完全に削除しており、序章も肝心の箇所を勝手に虫食い状に隠蔽、さらに訳文自体も少なからぬ意図的誤訳が検出されています。(岩波書店は月刊誌『世界』の発行元として知られる左翼傾向の強い出版社で、戦後GHQ職員が常駐し出版物を厳しく検閲したことで知られています)本書は、岩波文庫本で削除された章・誤訳された箇所も全て、1934年(溥儀、満州帝国皇帝に就任)当時の原著に忠実に訳出した2005年の新訳です。 近代中国は日本がつくった黄 文雄 (著) 自虐史観の刷り込みによる先入見とは全く無縁の著者が、当時の資料から浮かび上がる歴史事実を極力数値を用いて実証的に検証した目から鱗の名著。以下、数値による実証例。《1》中華民国南京臨時政府(1912年1月就任)内閣メンバー:18名中、9名が日本留学組《2》北京政府(1912-28)の閣僚経験者:1,447名中、556名が日本留学組《3》広州国民政府(1925-26)委員:24名中、14名が日本留学組《4》南京国民政府(1928-37)委員:81名中、40名が日本留学組《5》中国共産党創立大会の正式代表:12名中、6名が日本留学組 大東亜戦争への道中村 粲 (著) 特に中国(支那)・ソ連(ロシア)との歴史問題を事実関係の綿密な検証を通じて公正に解き明かした点で重要な平成2年(1990年)初版の名著但し、事実検証重視は、裏を返せば「歴史物語」的な面白みに乏しい(=演繹的ではなく帰納的)ということであり、余程の歴史マニアでなければ通読は困難か。興味のある人は図書館で捜すべし。下と5.の動画が同書の内容紹介となります。 続き⇒⑤、⑥ 5.「対華21ヶ条要求」の動画も参照 5.「対華21ヶ条要求」(1915年1月18日)の実際 ◇動画による解説(【桜塾】大東亜戦争への道【第十回】第一次世界と日本(1):中村粲(獨協大名誉教授)) 大東亜戦争への道 Twenty-One Demands in 1915 Jan 18① 大東亜戦争への道 Twenty-One Demands in 1915 Jan 18② 大東亜戦争への道 Twenty-One Demands in 1915 Jan 18③ 大東亜戦争への道 Twenty-One Demands in 1915 Jan 18④ 大東亜戦争への道 Twenty-One Demands in 1915 Jan 18⑤ ニコニコ動画版はこちら⇒① ② ③ ④ ■自虐史観から完全に目覚めるために!セットで読む歴史問題・解説ページ 中国の歴史・中国文明 辛亥革命~中国近代化運動の実際 中国はなぜ反日か? 自虐史観の正体 GHQの占領政策と影響 大東亜戦争への経緯 南京大虐殺の正体 沖縄戦集団自決命令問題 韓国はなぜ反日か? 日韓併合の真実 偏向教科書の正体 NHKの正体 靖國神社と英霊の御心 教育勅語とその精神 右翼・左翼の歴史 戦後レジームの正体 マルクス主義と天皇制ファシズム論 丸山眞男「天皇制ファシズム論」、村上重良「国家神道論」の検証 政治の基礎知識 歴史問題の基礎知識 ブログランキング応援クリックをお願いいたします(一日一回有効)。 人気ブログランキングへ 当サイトは、日本人の自虐史観(東京裁判史観)からの完全脱却を応援します。 当サイトは日本唯一の愛国放送・チャンネル桜を応援しています! ■セットで読む中国の民族問題解説ページ■東トルキスタン侵略の正体チベット侵略の正体南モンゴル侵略の正体台湾の真実中国の歴史・中国文明辛亥革命~中国近代化運動の実際
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英霊の神聖な座 ~ 靖國神社について正しい知識を得るページ このページでは、靖國神社に鎮まる英霊の遺された御心について、その歴史的沿革も含めて解説します。 <目次> ■1.留魂(りゅうこん)護国の思い◆1.用語説明:「留魂」・「鎮魂」・「招魂」 ■2.「留魂」(りゅうこん)とは何か◆1.吉田松陰『留魂録』巻頭の歌 ◆2.西郷隆盛『獄中有感』 ◆3.「留魂」・「招魂」・「鎮魂」 ◆4.各地に残る留魂碑・忠魂碑 ■3.「七生報国」の志◆1.吉田松陰『留魂録』巻末の歌 ◆2.太平記 巻十六 ◆3.皇居を守る楠公像 ■4.神州正気の精◆1.藤田東湖『和文天祥正気歌』と「英霊」 ◆2.徳川光圀と「嗚呼忠臣楠子之墓」 ◆3.戦後日本に「神州正気の精」を放つ靖國神社 ■5.安政の大獄と東京裁判◆1.吉田松陰・橋本佐内を始めとする幕末・明治殉難者 ◆2.留魂の思いを遺した殉国七士・昭和殉難者 ◆3.所謂「A級戦犯」分祀論は間違い ■6.昭和殉難者の遺された手紙・遺書より ■7.ご意見、情報提供 ■1.留魂(りゅうこん)護国の思い ◆1.用語説明:「留魂」・「鎮魂」・「招魂」 ◇「留魂(りゅうこん)」は現在では聞きなれない言葉であり、辞書にも記載がないため、後述する。 ※下は、一宮海水浴場・陸軍船舶幹部候補生「留魂碑」 ◇「鎮魂(ちんこん)」は広辞苑及びwikipediaには以下のように記載されている。 (広辞苑)ちん-こん【鎮魂】 ①魂をおちつけしずめること。たましずめ。 ②死者の魂をなぐさめること。 (wikipedia)鎮魂 鎮魂(ちんこん、たましずめ)とは、人の魂を鎮めることである。今日では「鎮魂」の語は、死者の魂(霊)を慰めること、すなわち「慰霊」とほぼ同じ意味で用いられる。しかし、元々「鎮魂」の語は「(み)たましずめ」と読んで、神道において生者の魂を体に鎮める儀式を指すものであった。広義には魂振(たまふり)を含めて鎮魂といい、宮中で行われる鎮魂祭では鎮魂・魂振の二つの儀が行われている。(以下省略) ◇次に、「招魂(しょうこん)」の説明 (広辞苑)しょう-こん【招魂】 ①[儀礼(土喪礼、注)]死者の魂を招きかえすこと。昔、人が死ぬと生きかえらせようとして死者の衣を持って屋根にのぼり、北に向かい3度その名を呼んだ。たまよばい。転じて、死者の霊を招いて祭ること。 ②(失神したときなどに)魂を招きかえすこと。 ◇次に、関連項目として「招魂祭」「招魂社」 (広辞苑)しょうこん-さい【招魂祭】 ①死者の霊を祀る儀式。 ②招魂社の祭典。 (wikipedia)招魂祭 招魂祭(しょうこんのまつり)は日本の陰陽道・中国の道教で行われる祭祀・呪術のひとつ。宮中でも行われた。 近代に新しく招魂社・靖國神社などで死者に対して始められた「招魂祭」(しょうこんさい)については靖國神社参照(以下省略) (広辞苑)しょうこん-しゃ【招魂社】 明治維新前後から、国家のために殉難した人の霊を祀った神社。1868年(明治1)各地の招魂場を改称。1939年さらに護国神社と改称。靖國神社も招魂社の一であるが護国神社と改称しなかった。 (wikipedia)招魂社 招魂社(しょうこんしゃ)は明治維新前後から、また以降に国家のために殉難した英霊を奉祀した各地の神社。東京招魂社は1879年(明治12年)靖國神社と改称。地方の招魂社は1939年(昭和14年)護国神社と改称。そういういきさつがあるので、明治末期になっても、靖國神社という名称よりも、招魂社という名で庶民には親しまれていた。(夏目漱石の『吾輩は猫である』の中に幼い娘の発言に「招魂社」が登場する。 また、日本初の招魂社は櫻山招魂場(現・櫻山神社、慶応元年(1865年)8月、山口県下関市)である。 王朝時代には、死者に対する陰陽道の招魂祭(しょうこんのまつり)は禁止されていた。死者・生者に対する神道儀礼は鎮魂祭と称されていた。靖國神社の旧称「東京招魂社」は「在天の神霊を一時招祭するのみなるや聞こえて万世不易神霊厳在の社号としては妥当を失する[1]」可能性があるために廃されたという。ただし、名称変更後も「招魂祭」(しょうこんさい)は続けられた。(以下省略) ■2.「留魂」(りゅうこん)とは何か ◆1.吉田松陰『留魂録』巻頭の歌 吉田松陰 留魂碑 安政6年10月26日(安政の大獄による刑死の前日)の夕刻、吉田松陰(1830-59)は獄中で遺書を書き遺した。これを松陰自ら題して『留魂録(りゅうこんろく)』という。 『留魂録』(吉田松陰:著) その冒頭にある歌 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留めおかまし大和魂 すなわち、身はたとえ朽ちても大和魂を留めて御國(みくに)を守らんとする願意を示した歌である。これを「留魂(りゅうこん)」という。 ◆2.西郷隆盛『獄中有感』 西郷隆盛(1827‐77、号:南州)は1862年(文久2年)、薩摩藩主島津久光の怒りに触れて沖永良部島に一時流された時に『獄中有感(獄中感有り)』と題する詩を詠んだ。 その末尾には、「願留魂魄護皇城(願くば魂魄を留めて皇城を護らん)」と、やはり「留魂」の思いが詠われている。 獄中有感 西郷隆盛作 朝蒙恩遇夕焚坑 朝に恩遇を蒙り夕に焚坑せらる 人生浮沈似晦明 人生の浮沈晦明に似たり 縦不回光葵向日 たとい光を回らさざるも葵は日に向う 若無開運意推誠 もし運開くなきも意は誠を推す 洛陽知己皆為鬼 洛陽の知己皆鬼となり 南嶼俘囚独竊生 南嶼の俘囚独り生を竊む 生死何疑天付与 生死何ぞ疑わん天の付与なるを 願留魂魄護皇城 願くば魂魄を留めて皇城を護らん 西郷隆盛の留魂祠と留魂碑 ※西南戦争によって不本意ながらも明治政府に弓を引いた西郷隆盛は靖國神社には合祀されていないが、勝海舟によって、その遺徳を顕彰する留魂碑が建立されている。 ◆3.「留魂」・「招魂」・「鎮魂」 以上をまとめて、平たく表現すると以下のようになる。 ① 留魂(りゅうこん) 「御国(みくに)」「天皇」あるいは、そこまで明確に意識しておらずとも「故郷」「国民」「家族」を護らんとした殉難者の遺した思い(御霊(みたま))のこと。 ② 招魂(しょうこん) 殉難者の思いを御霊(みたま)として神社(正確には神籬(ひもろぎ))に招くこと。 ③ 鎮魂(ちんこん) 現代的な意味では、殉難者の御霊(みたま)に対して残された人々が感謝の誠をささげ、御霊を慰め鎮めること。 ◆4.各地に残る留魂碑・忠魂碑 上記の吉田松陰や西郷隆盛の留魂の思いは、戊辰戦争から大東亜戦争へと続く幾多の戦いの殉難者達の胸の中に引き継がれた。 ◇特攻艦隊 留魂碑 ◇軍艦「榛名・出雲」戦歿者留魂碑 ◇大分護国神社留魂碑 ※なお全国的には、上記のような思想的背景を帯びた「留魂碑」ではなく「忠魂碑」「忠霊碑」の呼称が使われている場合が一般的である。 ※「留魂」の語は陸海軍の士官など一定の護国の思想教育(水戸学・崎門学および国学)を受けた者に好んで使用される傾向があるように見受けられる。 ■3.「七生報国」の志 ◆1.吉田松陰『留魂録』巻末の歌 『留魂録(りゅうこんろく)』の末尾は以下の歌で結ばれている。 七たびも生きかへりつつ夷(えびす)をぞ攘(はら)はんこころ吾れ忘れめや すなわち、松陰は留魂録をつづり終えるに際して、大楠公(楠木正成)の「七生報国(しちしょうほうこく)」の志へと思いを馳せた。 ◆2.太平記 巻十六 大楠公の最期として「太平記」に誌された叙述 正成座上に居つゝ舎弟正季に向って、そもそも最後の一念に依って善悪の生を引くといへり、九界の間になにか御辺の願あると問ひければ、正季からからと打笑ひて、七生まで唯同じ人間に生れて、朝敵を減さばやとこそ存じ候へと申しければ、正成よに嬉しげなる気色にて、罪業深き悪念なれども我も斯様に思ふなり、いざさらば同じく生を替へて、此本懐に遷せんと契って、兄弟共に刺違へて、同じ枕に伏しにけり ◆3.皇居を守る楠公像 ■4.神州正気の精 ◆1.藤田東湖『和文天祥正気歌』と「英霊」 吉田松陰・橋本景岳・西郷隆盛ら幕末・明治維新期の志士達の思想に決定的な影響を与えたのは、会沢正志斎・藤田東湖に代表される後期水戸学である。 ◇『和文天祥正気歌(文天祥正気の歌に和す)』 藤田東湖(1806-55 水戸の教学を指導した藩儒)が、藩主徳川斉明が幕府に睨まれて隠居謹慎を命じられた時に憤激して、南宋の文天祥(1236-83 元朝フビライ汗による南宋侵攻に抗して戦い、捕らわれても最後まで節を曲げなかった忠臣)の遺した『正気歌(せいきのうた)』に和して詠んだ詩 詩 読み下し 大意 天地正大気 天地正大の気 天地間の正大の気は、 粋然鍾神州 粋然として神州に鍾(あつ)まる 純粋なままに日本に集まっている 秀為不二嶽 秀でては不二の嶽(みね)と為り 高く秀でては富士山となって 巍巍聳千秋 巍巍(ぎぎ)として千秋に聳(そび)ゆ いつの世にも威容を聳えさせている (途中省略) 承平二百歳 承平 二百歳 徳川幕府が開かれてより太平の続くこと二百年 斯気常獲伸 斯の気 常に伸ぶるを獲たり 正気は、この間つねに人の世に伸び広がっていった 然当其鬱屈 然れども其の鬱屈に当たりては そうはいっても、時にこの正気も結ぼれて世に現れぬかと見えたこともあったが 生四十七人 四十七人を生ず その時に、赤穂義士四十七人を生じたのである 乃知人雖亡 乃(すなわ)ち知る 人亡ぶと雖も かくして人の肉体は死によって亡びるが 英霊未嘗泯 英霊 未だ嘗て泯(ほろ)びず 人が宿していた英霊は決して滅びることはない (途中省略) 生当雪君冤 生きては当(まさ)に君冤を雪(そそ)ぎ 生きてあるならば藩公の冤罪をそそぎ 復見張綱維 復た綱維を張るを見るべし 正気によって世道人倫が再び健全に輝く姿を示さねばならない 死為忠義鬼 死しては忠義の鬼(き)と為り もし死を迎えるならば、正気は我が魂に凝(あつま)って忠義の鬼となり 極天護皇基 極天 皇基を護らん 天地の尽きるまで皇国を護持するのだ ※詩中にある「英霊」(この場合は赤穂義士(四十七士)を指す)が、靖國神社・護国神社の御霊すなわち「英霊」の語の典拠とされる。 ◆2.徳川光圀と「嗚呼忠臣楠子之墓」 水戸学を開いたのは、講壇や時代劇で有名な徳川光圀(水戸黄門)である。 光圀は『大日本史』の編纂をつづける過程で、楠木正成の終焉の地 摂津国(現:兵庫県)湊川を訪ねて、そこに「嗚呼忠臣楠子之墓」と刻ませた墓碑を建立した。(現在の湊川神社) 後世、吉田松陰を始めとする幾多の志士がこの楠公の墓碑を拝して涙し、勤皇・護国の志を堅くした。 ◇真木和泉守保臣(1813-64 久留米藩士。安政の大獄によって吉田松陰・橋本左内という思想的指導者をうしなった後の尊攘派を物心両面にわたって先達として指導し、戊辰戦争の前哨戦となる禁門の変(蛤御門の変)に決起して破れて自害した)が詠じた詩の一節 嗚呼一片忠臣石 あゝ一片忠臣の石 鎮得神州正気精 鎮め得たり神州正気(せいき)の精 ◆3.戦後日本に「神州正気の精」を放つ靖國神社 幕末期に湊川の畔に立つ楠公墓碑が果たした役割を、戦後日本において果たしてきたのは、靖國神社であり護国神社である。 政治家であれ民間人であれマスコミであれ、その人物・組織の靖國神社・護国神社に対する姿勢が、その者の国家観・歴史観を明瞭に私たちに知らしめるリトマス試験紙となっている。 ◇靖國神社に対する姿勢(見取り図) 靖國神社参拝 所属 東京裁判をどう見るか 日本の戦争をどう見るか 憲法をどうみるか 評価 反対論 社民党、共産党、公明党民主党(社民系など護憲リベラル)自民党(リベラル派)北朝鮮、韓国朝日、毎日、NHK 日本人は全員謝罪汁! 日中十五年戦争は侵略戦争アジア太平洋戦争で日本は東南アジアをも侵略した 憲法9条死守平和憲法を守れ 論外消えて欲しいアノヨ(×) 分祀論 自民党(一般の議員)民主党(党内で右派とされる議員)中国政府読売、日経 A級戦犯の合祀は問題だ 太平洋戦争はアメリカが悪いしかし満州事変~日中戦争は日本の中国侵略 憲法改正は必要特に9条2項は削除すべき 半可通もっとよく勉強しましょう(△) 推進論 自民党(保守派)民主党(保守派:非常に少数)台湾の李登輝氏産経、チャンネル桜 国内法上は戦犯など存在しない(国会で名誉回復決議) 大東亜戦争は自存自衛満州事変~支那事変も侵略とは言い難い 自主憲法制定が必要 感服よく勉強しておられます(○) ※参考:「靖國問題」とは何か(赤池誠章・衆院議員(自民党)) ■5.安政の大獄と東京裁判 ◆1.吉田松陰・橋本佐内を始めとする幕末・明治殉難者 吉田松陰・橋本左内・頼三樹三郎をはじめとする「安政の大獄」の殉難者、真木和泉守を始めとする「禁門の変」の殉難者、さらに坂本龍馬・高杉晋作・清川八郎・中岡慎太郎等々、歴史上に著名ないわゆる幕末の志士・国事に盡して斃れられた方々は、幕末・明治維新殉難者として靖國神社・護国神社に合祀されている。 ◆2.留魂の思いを遺した殉国七士・昭和殉難者 東京裁判の結果、法務死を遂げられた東条英機元首相を始めとする殉国七士(所謂A級戦犯)、さらに山下奉文大将を始めとするフィリピンなど南方各地や支那で連合国による一方的な「戦犯」判決によって法務死を遂げられた方々も昭和殉難者として合祀されている。 敗戦の責任を一身に背負い、英・米・蘭・支那など連合国民の極めて不当な敵愾心・復讐心を全て引き受けて、従容として戦後日本の再建の礎となられた、これらの方々もまた、尊い留魂の思いを私たち国民のために遺されたからである。 ◆3.所謂「A級戦犯」分祀論は間違い 殉国七士を始めとして連合国による「戦犯」判決が下された方々に対しては、サンフランシスコ講和条約発効前後に(当時の最大野党だった左右の社会党も含めて)その全員の赦免を求める国民的運動(4,000万人以上の署名が集まった)が巻き起こり、国会で共産党・労農党(のちに社会党に合流したマルクス主義政党)を除く全政党議員による圧倒的多数の賛成をもって「戦犯」の赦免・名誉回復決議が行われた。 (共産党機関紙・赤旗より引用) サンフランシスコ平和条約発効(1952月4月)後、国会では戦争犯罪問題の論戦がさかんにおこなわれました。その特徴は、侵略戦争への反省ではなく、逆に戦争犯罪人は「国の犠牲者」「愛国者」であるといった戦争責任の免罪でした。戦犯釈放・赦免要請決議は参院本会議では52年6月9日、衆院本会議では52年6月12日、52年12月9日、53年8月3日、55年7月19日の計5回ありました。これらの決議は、日本共産党と労農党を除いた、自由党、改進党、右派・左派両社会党などの共同提案によるものです。 (引用終わり) ■6.昭和殉難者の遺された手紙・遺書より ◇笹倉林治 命(みこと)(昭和22年12月フィリピン・マニラにて法務死、享年26歳) 【母上様宛封書】前略暫らく御無沙汰致しましたのでさぞ案じ居られた事と存じます。毎週御便りをと心掛け居りますも、手紙の用紙が支給してもらへないので、今日迄延引致し誠に申訳無く存じ居ります。其の後の状況をと存じますも別段変化も有りませんが、私達裁判の再審も終り同ケース死刑四人の内風戸文之君が一人懲役二十年に減刑になり、中村隊長に小生と一条幸真君が減刑無く残されましたので、覚悟はして居たものゝ希みの綱も既に切れました。最後の日に到り何も申し残す事もありませんが、只日本人として将又帝国軍人として従容として立派な態度を以て死にのぞみたいと存じます。故郷の母上一同の事をも案じ居りますも、今更何とも致し方なく、今後御健在にて幸福な家庭を造り、日々をすごされん事を草葉の蔭より御祈り致し居ります。今日迄の清況をば富山市清水町の田林様が今度皈国するので家に寄るはず故、一切が判る事と存じますから手紙は書きません。此の手紙は隣りの独房の渡辺君に依頼致しました。友人諸君に宜敷く。嵐吹き 桜の花は散り行くも 我が魂魄は国を守らん ◇上田貢 命(みこと)(昭和21年6月フィリピン・マニラにて法務死、享年30歳) 遺書 昭和二十一年四月二十三日一. 御両親様ヘ三十有余年間ノ御養育其他ニ対スル報恩ノ一端モ尽シ得ズ、先キ立ツ罪ヲ御許シ下サイ。然シ、今此処ニ国ニ殉ジ死ニ赴カントスル一事ヲ以テ、全テヲ御許シ下サル事ト存ジマス。私ノ死後、新聞ラジオ等ニ依リ、私ノ戦争犯罪事実ガ誤報サレテ伝ハル事ヲ怖レ、次ニ簡単ニ事実ヲ書キ残シマス。●昭和十七年七月六日当時、私ハ四名ノ憲兵ノ長トシテ某部隊ニ配属トナリ、「レイテ」島「タクロバン」町ニ在リマシタガ、七月六日俘虜収容所カラ逃走ヲ計ツタ米人将校一、比島人三ヲ部隊ニ於テ処刑スルニアタリ、憲兵トシテ立会ヲ命セラレ、死刑現場ニ立会ヲシタ事。(途中省略)事件事実ハ右ノ通リデシタガ、裁判ノ結果、比人証人ノ嘘言ヲ信用セラレ、当時私ハ「タクロバン」ノ憲兵隊長デ、右ノ事件ハ全テ私ノ命令ニ依リ行ハレタト判断サレテシマヒマシタ。其レト云フノモ、当時ノ部隊長・直接指揮シタ将校・行為者等全テノ人達ハ現在戦死シタカ行方不明デ居ナク、私一人カ生キ残ツテヰタ故、然モ住民ニ良ク名前ヲ知ラレテ居タタメ、私一人ダケ起訴サレタ次第デス。(途中省略)内地ノ人達デモ常識ノ有ル人ハ、斯ル馬鹿ナ裁判ガアルモノカト思フ人モアルト思ヒマスガ、此ノ様ナ裁判ハ私ノ場合丈デナク多数アリ、斯ル裁判ガ平気デ行ハレテヰルノデス。ダカラ私トシテハ、裁判ヲ受ケテ殺サレルト思ヘバ残念デスガ、戦ニ負ケテ有無ヲ云ハサヌ敵ニ殺サレタト思ヘバ何ンデモナイ事ト思ヒマス。(途中省略)只、御両親様並ニ弟妹達ノ長命ヲ祈ルト共ニ、妻子ノ将来ヲ御願ヒ申シマス。愛子ノ将来ニ就テハ、私、少シモ束縛シヨウトハ思フテハヰマセン。全テ彼女ノ意思ニマカセテヤツテ下サイ。最後ニ私モキリスト教徒トシテ昇天シテ行キマス。神ヨ、我ガ一族ニ祝福ヲ与ヘラレン事ヲ!!(遺骨ガトドカヌト思ヒマスカラ遺髪ヲ同封シテ置キマス)二.最愛ナリシ愛子ヘ(途中省略)三.未ダ見ザリシ最後(ママ)ノ恵子ヘ1.オ前ノ父サンハ国ニ忠義ナ立派ナ日本人ダヨ。2.オ前ノ祖父母サンヤ母サンモ立派ナ日本人デス。父サンガ無クテモ祖父母ヤ母サンノオ教ヲ良ク守リベン強シテ立派ナ人ニナルノダヨ。3.オ前ガ学校ニ行ク頃ハアメリカ流ノ教育ニナツテヰルト思フガ、アメリカ流デモ良イ所ハ進ンデナラヒ、人ニ負ケテハイケナイガ、日本人ダト云フ事ヲ寸時モ忘レテハイケナイ。オ父サンハ永イ間外国ニ居テ、外国ノ女ハ少シモ偉イトハ思ハナカツタ。ヤハリ女ノ人ハ日本ノ女ガ世界第一立派デアツタト思ヒマス。ダカラ大キクナツタラ立派ナオ母サントナツテ立派ナ日本男子ヲ沢山生ンデ、父サンガアメリカト戦ツテ立派ナ戦死ヲシタ事ヲ伝ヘテ下サイ。昭和二十一年四月二十三日於マニラ上田貢オ父サンハ何時モオ前ト共ニ居テ、オ前ヲ護ツテ居る事を忘れるな。 【関連】 靖國神社参拝問題 ■7.ご意見、情報提供 ↓これまでの全コメントを表示する場合はここをクリック +... なんだ、まだ生きてたのか バカウヨ -- バカウヨハンター (2015-07-03 04 07 11) ↑バカウヨハンター(゚Д゚)<死ね -- 野獣先輩 (2017-01-10 23 53 09) 以下は最新コメント表示 なんだ、まだ生きてたのか バカウヨ -- バカウヨハンター (2015-07-03 04 07 11) ↑バカウヨハンター(゚Д゚)<死ね -- 野獣先輩 (2017-01-10 23 53 09) 名前 ラジオボタン(各コメントの前についている○)をクリックすることで、そのコメントにレスできます。 ■左翼や売国奴を論破する!セットで読む政治理論・解説ページ 政治の基礎知識 政治学の概念整理と、政治思想の対立軸 政治思想(用語集) リベラル・デモクラシー、国民主権、法の支配 デモクラシーと衆愚制 ~ 「民主主義」信仰を打ち破る ※別題「デモクラシーの真実」 リベラリズムと自由主義 ~ 自由の理論の二つの異なった系譜 ※別題「リベラリズムの真実」 保守主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ ナショナリズムとは何か ケインズvs.ハイエクから考える経済政策 国家解体思想(世界政府・地球市民)の正体 左派・左翼とは何か 右派・右翼とは何か 中間派に何を含めるか 「個人主義」と「集産主義」 ~ ハイエク『隷従への道』読解の手引き 最速!理論派保守☆養成プログラム 「皇国史観」と国体論~日本の保守思想を考える 日本主義とは何か ~ 日本型保守主義とナショナリズムの関係を考える 右翼・左翼の歴史 靖國神社と英霊の御心 マルクス主義と天皇制ファシズム論 丸山眞男「天皇制ファシズム論」、村上重良「国家神道論」の検証 国体とは何か① ~ 『国体の本義』と『臣民の道』(2つの公定「国体」解説書) 国体とは何か② ~ その他の論点 国体法(不文憲法)と憲法典(成文憲法) 歴史問題の基礎知識 戦後レジームの正体 「法の支配(rule of law)」とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 立憲主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 「正義」とは何か ~ 法価値論まとめ+「法の支配」との関係 正統性とは何か ~ legitimacy ・ orthodoxy の区別と、憲法の正統性問題 自然法と人権思想の関係、国体法との区別 「国民の権利・自由」と「人権」の区別 ~ 人権イデオロギー打破のために 日本国憲法改正問題(上級編) ※別題「憲法問題の基礎知識」 学者別《憲法理論-比較表》 政治的スタンス毎の「国民主権」論比較・評価 よくわかる現代左翼の憲法論Ⅰ(芦部信喜・撃墜編) よくわかる現代左翼の憲法論Ⅱ(長谷部恭男・追討編) ブログランキング応援クリックをお願いいたします(一日一回有効)。 人気ブログランキングへ
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※理論派保守のゴール=自主憲法制定の為の理論武装にいよいよ挑戦します。 日本国憲法とは何か 平易でありながら、憲法を考える上で最低限必要な知識をきちんと教えてくれる名著。姉妹編の『明治憲法の思想―日本の国柄とは何か』と併せて読んで欲しい。 『自由の条件』(全3巻)F.A.ハイエク著(1960) 第一部 自由の価値 第二部 自由と法 第三部 福祉国家における自由 三巻本。続編の『法と立法と自由』も三巻本で、一冊一冊が高価だが、図書館などで見つけて目を通して欲しい。サッチャー政権の保守主義改革の理論的根拠となったネオ・リベラリズム(新自由主義=新保守主義)の代表作。論旨明快なため、内容はさほど難しくないはず。 憲法1 国制クラシック、憲法2 基本権クラシック 著者・阪本昌成氏(近畿大学教授・憲法学者)はハイエクの自由論とハートの法概念論をベースに自由主義的憲法学を展開する稀有の碩学。右記の2冊本は保守のための憲法基本書として唯一無二の価値を持つ名著であり、宮沢俊義→芦部信喜と続く左翼憲法学の誤謬を完膚なきまでに粉砕する内実を備えている。2冊とも2011年秋に改訂されており、最新の判例をも取り込んでいるところも嬉しい。※重要参考ページ⇒ 1. 阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)⇒ 2. 阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)} 公正としての正義 再説 著者ロールズは現代リベラル思想の代表者。かなり難解だが、標準的な政治思想・法思想を押さえる上で欠かせない一冊であり批判的に読んでおく必要がある。 現代法理学 ハイエクとロールズの両思想を押さえた上で読むべき法思想・法理論の標準的解説本(ただし超難解)。憲法その他の実定法をいかなる思想を持って定立すべきかを、かってのドイツ系の「法哲学(legal philosophy)」の立場からでなく、英米系の「法理学(jurisprudence)」の立場から考える重要な一冊。ここまで読んでおけば理論派保守として免許皆伝? 厄介な左翼相手の論争で無敵の王者になれるかも?